【ネタバレ解説】映画『マトリックス』とは何だ?《名前の意味・キリスト教との関係》

2018.04.14
映画

Why So Serious ?

侍功夫

1999年。ハリウッドから革新的な作品が生まれる。

黒いロングコートのイケメンと艶やかな黒いエナメルに身を包んだ美女が、カンフーとマシンガンを操り、キメキメにポーズをキメながら戦う『マトリックス』である。

しかし、それら優れたビジュアルの影には、実は非常に面倒くさい設定がある。また、今となっては常識的な映画手法も、実はこの『マトリックス』が切り拓いたものだったりする。本記事では、『マトリックス』が孕(はら)んでいた「面倒くさい設定」と「切り拓いたもの」について“可能な限り”解説していく。

『マトリックス』をまだ未見だという方は、読む前に是非ご鑑賞を。

マトリックス

※以下『マトリックス』のネタバレを含みます。

普通の俳優に本格アクションさせる「香港スタイル」

『マトリックス』が登場する以前、ハリウッド映画の格闘シーンでは、スタントマンの顔があまり映らないアングルで戦ったり、俳優がへっぴり腰で戦ったり、格闘家を俳優として起用するなどの方法がとられていた。しかし、『マトリックス』では俳優自身にかなり本格的な格闘場面を演じさせている。

『マトリックス』の“コリオグラファー”(多くの場合ダンスの「振付師」を指すが、この場合「武術指導」)はユエン・ウーピンである。ジャッキー・チェンを世に知らしめた傑作『ドランク・モンキー/酔拳』の監督だ。

酔拳

カンフー映画と言えばブルース・リーをはじめ、ジャッキー・チェンやジェット・リーなど実際にカンフーの経験のある俳優が有名だが、たとえば、詠春拳の達人を描いた香港映画『グランド・マスター』では、トニー・レオンやチャン・ツィーといった普通の俳優が見事なカンフーを見せている。

さらに遡れば、香港映画には、1960年代に黄金期を築いたショウ・ブラザーズの時代から、普通の俳優にカンフー場面を演じさせてきた歴史がある。その歴史を支えた一人がユエン・ウーピンなのである。

『マトリックス』は、ハリウッドにおいて“普通の俳優に本格アクションをさせる”という「香港スタイル」を取り入れた先駆的な作品なのである。

誰も観たことの無い映像

本作で登場した「バレット・タイム」と呼ばれる撮影方法(ネオのエビ反り弾丸避けの場面)は一大ブームとなり、後に様々なパロディ/エピゴーネン(模倣)を生み出した。

この「バレット・タイム」、技術面では特に新しいものは無い。撮影で使用するのは、スチールカメラ数十台と光学合成用の緑一色に塗りつぶされたスタジオ。カメラの軌道に見立てたコース上にスチールカメラを設置し、エビ反るキアヌ・リーブスを1秒以下のタイムラグで撮影。それを繋げて、合間をモーフィングで補完していき、CGで作った背景に重ねる。

と、説明してしまえば何てことは無いのだが、このアイデアに行き着くまでには紆余曲折があった。中には「レールの上に、カメラを乗せたロケットを走らせて撮影する」という案まであったそうだ。

つまり、「被写体よりも早く動くカメラからの視点」というイメージありきで、あの映像が作られたのだ。よく聞く映画の宣伝文句に「誰も観たことの無い映像」というものがあるが、実際に「誰も観たことの無い映像」を作る困難さは特筆すべきだろう。それをやってのけたのが『マトリックス』なのである。

ネオという名前に込められた意味

『マトリックス』登場人物の名前にはギリシャ神話や古代エジプト史、キリスト教などの比喩・暗喩が隠されている。

ローレンス・フィッシュバーン演じる「モーフィアス」は、ギリシア神話に登場する夢を司る神様「モルペウス」の英語読み。『マトリックス』でも仮想空間:夢の世界にいたネオを誘い、現実に引き戻す役割だ。

キャリー=アン・モス演じる「トリニティ」は「三位一体」を意味する。キリスト教の牧師などがお祈りする時に唱える「父と子と精霊の御名において」というアレのこと。3つ揃うことで「一体」の唯一神になる。という意味で『マトリックス』ではモーフィアス、トリニティ、ネオの3人を指している。

劇中で「預言者」と呼ばれている「オラクル」はそのまま「預言者」の意味を持つのだが、キリスト教の文脈で使われた場合、新約聖書にあるキリスト到来を記した章のこと。

主人公「ネオ」の英語の綴り「NEO」は、「ONE」のアナグラムになっている。キリスト教で「The One」と言った場合、唯一神の「神様」のことで「NEO」とあわせて「新しい神様」を意味する。

と、これら主要人物に付けられた名前だけでも『マトリックス』がどんな物語なのかが解るだろう。

この他にも、彼らの乗るホバークラフト船「ネブカドネザル」や裏切り者「サイファー(と彼のマトリックス内での名前)」。続編に登場する「ナイオビ」「パーセフォニー」などなど。掘っていくとトンでもない文量が必要なので、今回は一旦無視して進める。

『マトリックス』とは「江戸しぐさ」である!?

『マトリックス』監督のラリー(現ラナ)・ウォシャウスキーが撮影前、出演者に読んでおくように指示した宿題図書が、哲学者ボードリヤールの評論「シミュラークルとシミュレーション」だ。

シミュラークルとシミュレーション

シミュレーション」は文字通りシミュレーション=実際の事柄を前提にした予行演習のような意味。聞きなれない「シミュラークル」とはフランス語で「まがいもの」「模造品」などの意味だが、この本では特に「オリジナルの無いコピー」という意味が定義されている。

わかりやすい例では、現在の日本における「江戸しぐさ」を取り巻く奇妙な事象が、正に「シミュラークルとシミュレーション」と言えるだろう。江戸時代には存在しなかったマナー集を実際にあったと勘違いした人々により、小・中学校の道徳の教科書に採用されてしまった。つまり、元々存在すらしていないマナー(シミュラークル)の復興が、実施(シミュレーション)されてしまっている。

『マトリックス』の場合、実際には世界は核兵器の使用で廃墟と化しているのだが、人間を「電池」として使用するためコンピューター内に「オリジナルの無いコピー」として架空の街が作られ、人間は意識だけで、その街の中で生活をしている。シミュラークルの中でシミュレーションが行われているのが『マトリックス』の世界設定である。

テロリスト的で過激な思想

伝説のハッカーであるモーフィアスとトリニティの導きにより仮想空間の世界から脱出したトーマス・アンダーソンことネオは、彼らの船ネブカドネザル号に乗り、コンピューターによって支配された人間を解放すべく、仮想空間世界「マトリックス」へ潜入する。

ネオはオフラインの仮想空間でトレーニングを行うのだが、その中でモーフィアスがこんな説明をする。

「マトリックスとはシステム(社会)だ。そして、システムは敵だ。しかし、そこには我々が救おうとしている人々がいる。だが、今はまだシステムを構成する一員で、つまり我々の敵だ。彼らの多くはまだプラグを抜く準備が出来ていない。盲目的にシステムに帰属し、それを守ろうとする。」

クライマックスで、モーフィアスが捕まったビルにネオとトリニティが、大量の銃器を持ち乗り込む場面。彼らをチェックする警備員は、まだマトリックスに囚われている市井の人々で、自分が置かれている状況はまるで理解していない。ネオとトリニティは、その彼らを片っ端から殺していく。

……これ、思いっきりテロリストの論理である。

しかし、『マトリックス』の登場人物としては必然的なのだ。

俺はまだ本気出してないだけ

『マトリックス』主人公のネオは「うだつの上がらぬサラリーマンが世界の命運を握る救世主だった!」という設定を背負っている。

この設定は「ハリー・ポッター」シリーズや「スター・ウォーズ」シリーズなどと同様のものだ。ハリー・ポッターは里親の元でいじめられて育つメガネっ子。ルーク・スカイウォーカーは砂漠だらけの辺鄙な星で里親の農家を手伝う青年である。またスパイダーマンやキャプテン・アメリカ、ハルク、アントマンなどアメコミ・ヒーローものにも当てはまるだろう。これは、いわゆる「英雄譚」の設定である。

ところで。子供のころ、親にこんな事を言われて育ってこなかっただろうか?

「末は博士か大臣か!」「大器晩成!」

学校で勉強もスポーツも特に秀でた才能が無かったとしても、それは今だけで、将来必ず何か得意なものが出来て大人物になると言われ続け、そういうものだと思い込んで育った方も多いだろう。

しかし、現実は違う。ほとんど全ての人は“普通の人”になってしまう。そんな多くの人々に対して“夢”を提供するのが「英雄譚」であり、映画『マトリックス』なのである。

その一方、子供の頃に言われた甘言はウソだとつきつけ、しかし同じ様にテロリストの論理で行動する主人公を描いた作品が『マトリックス』と同年の1999年に公開されている。

『ファイト・クラブ』だ。

ファイト・クラブ

ネオ=タイラー・ダーデン=キリスト!?

『マトリックス』は、現在の世界に「キリスト」のような存在がいたとしたらどんな人物・キャラクターになるかを「機械に支配された世界」という“シミュラークル(模造)”の中で、“シミュレーション(予行演習)”した作品だと言えるだろう。

そこで展開されるのは「社会に違和感を感じた人が、戦いを挑む」という物語だ。これは『マトリックス』の物語を大雑把に要約したものだが、それはそのまま『ファイト・クラブ』にも当てはまる。

『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)は生きていることに現実味を感じない男たちを集め、痛みを以って生きる実感を味あわせる「ファイト・クラブ」を作る。そして、社会を巻き込もうと戦いを挑む。

延いてはキリストも、ローマ帝国や多神教のミトラ教に馴染めなかった人々を率いて「迫害されても信仰を捨てない」という、ある種の「戦い」を挑んだ、とも言える(かなり大雑把ではあるが)。

つまり、現行の社会システムに対し反旗を翻す英雄を描こうとした場合、その人物は救世主であり、テロリストになるのだ。

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