【宇野維正×宮崎大祐監督】映画監督はなぜモノクロ作品を撮りたがる?

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Netflix Japan編集部

「どうしてこの作品はモノクロなのだろう?」と疑問に思ったことはないだろうか?

例えば、Netflix映画『ROMA/ローマ』(2019年アカデミー賞にて外国語映画賞・監督賞・撮影賞の3部門を受賞)や『Mank/マンク』(2021年アカデミー賞にて最多10部門ノミネート)。そして近年では大ヒット映画の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『パラサイト 半地下の家族』でもモノクロ版が作られている。そして、2月に公開されたばかりのNetflix映画『マルコム&マリー』(サム・レビンソン監督)もモノクロ映画だ。

現行『スパイダーマン』シリーズでもお馴染みのゼンデイヤと、『TENET テネット』での衝撃も記憶に新しいジョン・デビッド・ワシントン。そんなハリウッドのトップアクター2人を起用しながらも、画面に出てくるのはその2人だけ、さらにフィルム撮影によるモノクロ映画、という思い切った作品となっている。

どうして映画監督はモノクロで映画を撮りたくなるのだろうか?そして、現代においてモノクロ映画を作る意義はどこにあるのか?そんな疑問を、昨年劇場公開された新作『VIDEOPHOBIA』がモノクロ撮影であったことでも注目を集めた宮崎大祐監督に、映画ジャーナリストの宇野維正がぶつけてみた。

宮崎大祐@Gener80):映画監督。2011年に初の長編作品『夜が終わる場所』を監督。作品は『大和(カリフォルニア)』、『TOURISM』、『VIDEOPHOBIA』『北新宿2055』など。近作の『VIDEOPHOBIA』と『北新宿2055』(短編)はモノクロ映画である。

宇野維正@uno_kore):映画・音楽ジャーナリスト。著書「1998年の宇多田ヒカル」(新潮社)、「くるりのこと」(新潮社)、「小沢健二の帰還」(岩波書店)、「日本代表とMr.Children」(ソル・メディア)、「2010s」(新潮社)

モノクロ作品の背景にある、“憧れ”とデジタル撮影の進歩

宇野維正(以下、宇野):『マルコム&マリー』は現代のロサンゼルスが舞台でありながらモノクロで撮られています。ジョン・デビッド・ワシントンが演じているのは新進の映画監督、ゼンデイヤが演じているのはそのガールフレンド。パンデミック下での撮影だったということもあって、登場人物はその2人だけという点でもかなりユニークな作品ですが、昨年同じくモノクロ映画の『VIDEOPHOBIA』を発表した宮崎監督はどのように見ましたか?

宮崎大祐(以下、宮崎):自分がいつもガールフレンドと口喧嘩しているのと同じ状況を見ているようで、個人的にはなかなか痛ましかったですね(笑)。完成したばかりの新作が批評家から評価されて『どうだ! やったぞ!』となっている映画監督と、その状況にどこか違和感を覚えるガールフレンドという、会話の内容まで身に覚えがあって。題材としては、フィリップ・ガレルのようなフランスのアート系作品の監督がやりそうな作品なんですけど、それをハリウッドの監督と役者がやっているというところもとても興味深かったです。

宇野:それにしても、『マルコム&マリー』の主人公は駆け出しの若手監督のくせにすごい豪邸に住んでますよね。

宮崎:本当ですよ! 自分の住んでる部屋なんて、あの家のトイレより小さい(笑)。

宇野サム・レビンソン監督はどうしてこの作品でモノクロを選択したんだと思いますか?

宮崎:きっとレビンソン監督はかなりのシネフィル(熱狂的な映画好き)ですよね。お父さん(バリー・レビンソン)も映画監督で、今作の会話の中でも映画史の豆知識みたいなものがたくさん出てくる。そういう監督がモノクロ映画に憧れて、機会があれば自分でも撮りたいと思うのはよくわかります。それと、フィルム・ノワールへの憧れも強く感じました。

宇野:フィルム・ノワールというと、一般的には1940年代から1950年代にかけてのアメリカの犯罪映画を指す言葉ですが、宮崎監督の定義でいくともうちょっと広い?

宮崎:そうですね。デビッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』もまさにそうですが、作品の社会背景に第二次世界大戦の影響が色濃くあって、あまりハッピーな終わり方をしない一連の作品。手法的にはドイツ表現主義の影響下にある、コントラストの強いモノクロ映像という。予算が低くても照明一発で影をドカンと出すとノワールっぽさが出るので、そういう点でも若い映画監督がノワール的な手法に惹かれる気持ちはよくわかります

宇野:宮崎監督の『VIDEOPHOBIA』も、そういう意味ではノワールっぽい作品と言っていいのかもしれませんね。

宮崎:まず、モノクロ映画って、映画の作り手としてはちょっと恥ずかしさがあって。というのも、モノクロで撮るだけで簡単に映画っぽくなっちゃうんですよ。エンディングシーンを江ノ島で撮っちゃうのと同じくらい避けたいことだったんですけど(笑)。ただ、近年デジタル撮影がすごくよくなっていて、ラティチュードっていうフィルム用語なんですけど、そこでの黒の階層の表現の豊かさが、フィルムのモノクロ撮影にかなり近づいてきたんです。

宇野:なるほど。デジタル主義者のフィンチャーが、ここにきてモノクロ映画を撮ったこととも繋がっているのかもしれませんね。

宮崎:フィルムにしかできなかった黒の表現が、デジタルでもできるようになってきたことは大きいと思います。『VIDEOPHOBIA』に関して言うと、ロケ地を大阪にしたことが要因の一つで。大阪の街って、色がすごく多いんですよ。街のネオンだけじゃなくて、そこに住んでいる人の服装も含めて。それを敢えてモノクロで撮ってみたいという思いがあって。それと、作品のテーマとして白黒分けられないグレーな世界を描きたいということもありましたね。

「モノクロは、監督にとって自然な欲求」

宇野:映画監督という立場からの見解をお伺いしたいのですが、アルフォンソ・キュアロンの『ROMA/ローマ』、フィンチャーの『Mank/マンク』、そして今回の『マルコム&マリー』をはじめ、Netflix映画はこれまでモノクロ作品を数多く世に送り出しているじゃないですか。監督としては「Netflix映画だから商業的な要請を跳ね除けて果敢にモノクロ作品にチャレンジできる」という状況が生まれている一方で、モノクロ作品はカラー作品以上に視聴環境に左右されるのも事実で。特に黒の表現のニュアンスというのは、映画館の環境で観られることを多くの作り手は想定していると思うんです。その矛盾についてはどう思いますか?

宮崎:これはあくまでも自分の考えですけど、作り手にとっては「これ、劇場でかけたらすごいんだぞ」という作品ができてしまえば、そこで一定の満足を得られてしまうと思うんですよ。

宇野:実際に、限定されたかたちではありますけど、劇場でも上映される機会はありますしね。

宮崎:そう。それは映像だけじゃなく、例えば『Mank/マンク』の音の作り込み方なんて、明らかに家庭での視聴環境を超えたものになっているじゃないですか。作り手として重要なのは、そういうポテンシャルを持った作品を実現できることなんじゃないかなって思いますね。

宇野:一方で、これはNetflixでもカラー版と並んで配信されてますが、ポン・ジュノ監督は『パラサイト 半地下の家族』でモノクロ・バージョンを作って、それを劇場で公開もしました。ちょっと前だと、ジョージ・ミラー監督も『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のモノクロ・バージョンを劇場公開しましたよね。あれはどういった理由からだと思いますか?

宮崎:それは監督にとって自然な欲求だと思いますよ。

宇野:作品が大ヒットしたことで、その欲求が実現できたということですね。

宮崎:逆に、自分も『VIDEOPHOBIA』のカラーバージョンを作ってみたいですから。

宇野:デジタル撮影だから、技術的にはそういう映像処理も可能ということですね。

宮崎:はい。映画を作っていて何が楽しいって、フィルムの時代でいうと現像の過程、今でいうところのグレーディング(画像の階調と色調の調整)の過程なんですよ。グレーディング次第でまったく違う作品になるので、それがカラーとモノクロで2回できるっていうのは、映画監督にとって恍惚の瞬間が倍になるということですから。

モノクロ作品は監督にとって“禁断の果実”

宇野現在作られているモノクロ映画って、三種類に分けることができると思うんですよ。『ROMA/ローマ』や『Mank/マンク』のように、そもそもの舞台設定が、まだモノクロ映画が主流だった時代を描いた作品。つまり、時代背景に合わせた作品ってことですね。もう一つが、『パラサイト 半地下の家族』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のような、いわば巨匠によるバージョン違いの作品ですね。で、最後の一つが、これは『マルコム&マリー』も『VIDEOPHOBIA』も当てはまるわけですが、現代を舞台にしているのに敢えてモノクロを選択している作品。

宮崎:その分類でいいと思います。ただ、同じ現代を舞台にしたモノクロ作品でも、往年のモノクロで撮られたフィルム映画に憧れがある作り手の作品と、なんとなく気分でモノクロで撮ってみたって作品には違いがあるとは思いますね。

宇野:後者の作品は、ちょっと厳しいですね。

宮崎:ミュージック・ビデオとかだったらそれでもいいと思うんですけど、さすがに長編映画になるとしんどいですね(笑)。モノクロ映像って、どうしても役者に意識が集中するので、監督の演出力や役者の演技力がより問われるんですよ。そういう意味でも、『マルコム&マリー』は役者の映画としても魅力的でした。しかも、レビンソン監督はこの作品をフィルムで撮ってるわけで。

宇野:そうか。そういう意味では、現代なのに敢えてモノクロで撮ったというだけでなく、敢えてフィルムで撮ったという要素も乗っかってるわけですね。

宮崎:ちょっと調べてみると、Netflixの作品って、実はフィルムで撮られてる作品が結構多いんですよ。

宇野:そういえば、モノクロ作品ではないですけど、『ジ・エディ』のデイミアン・チャゼルが撮ったエピソードはフィルムで撮影されていました。あの作品はテレビシリーズなので、劇場でかかる機会もほとんどないはずですけど。

宮崎:そもそも、フィルムでそのまま上映ができる劇場が世界的にほとんどなくなってる中で、敢えてフィルムで撮影をするのってほとんど監督の自己満足に近いものがあるんですよ。それでも、それを実現できるのは豊かなことだと思います。アメリカの企業って、シネコンは大作も上映するけど、夜の深い時間になると若者に向けにインディーズ作品を上映するみたいな、組織が大きくなればなるほど文化的な貢献についても考えなくてはいけない、みたいなところがあるじゃないですか。こうしてNetflixでモノクロ映画やフィルム映画が作られているのも、Netflixの中に作品の作り手に裁量を預けるという土壌があるからだと思うんですよね。

宇野:一般的にモノクロ映画は劇場でかける場合は商業的なリスクがあるとされていますが、それについてはどう思いますか?

宮崎:『VIDEOPHOBIA』に関して言うと、実はこれまでの作品で最も客層に広がりがあったという実感があるんですよ。モノクロで、ちょっとホラーテイストもあってということで、ジャンル映画として伝わったところもあって、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』のお客さんとかが観に来てくれたりという状況が生まれたんです。今、アメリカやヨーロッパのインディペンデントの映画作家の作る作品って、何かしらジャンルを引っ掛かりにする作品が増えていて、そういう部分は自分も意識していました。

宇野:なるほど。インディペンデントの作品においては、モノクロであることは決してリスクではないってことですね。

宮崎:ただ、モノクロ映画の撮影って、技術的にはもちろんいろいろなノウハウが必要なんですけど、やっぱり照明などの撮影現場でのコストはカラーよりもかからないので、一度そのノウハウを得てしまうとまた撮りたくなってしまうという、禁断の果実みたいなところがあるんですよ。とりあえず次の長編作品はカラー作品を考えているので、今は“またモノクロで撮りたい”という誘惑と闘っているところです(笑)。

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