連載企画「鏡の中のダイバーシティ」
今年のアカデミー作品賞の発表は、プレゼンターに手渡される用紙が間違ってしまい、一度『ラ・ラ・ランド』と発表された後に『ムーンライト』が正しい受賞作品と発表される前代未聞のハプニングがありました。
最多部門ノミネートを果たした『ラ・ラ・ランド』は、作品賞でも最有力候補とも言われていて、作品賞とセットで受賞するケースが多い監督賞も受賞を果たしていましたから、ハプニングもさることながら、受賞を逃したことへの驚きの声も少なくありませんでした。
今回『ラ・ラ・ランド』ではなく『ムーンライト』が作品賞を受賞した背景には、昨年の「白すぎるオスカー」騒動なども背景にあると指摘する識者も多いです。もちろんオスカーにノミネートされている時点で、どの映画も本来は甲乙つけがたいレベルの優れた作品なのですが、そういうハイレベルな中から1本を選ぶ作業となると、様々な思惑が絡んでくるのでしょう。個人的には、『ムーンライト』も『ラ・ラ・ランド』も他の候補作もいずれもオスカーにふさわしい質の作品であると思います。
ハリウッドは政治的にはリベラルの立場の人が多いですが、長年白人優位の業界でもあり続けているとも言われています。
アカデミー賞の結果以外にも、近年のハリウッドでは多様性を巡る議論が活発です。それは作品の内容に関してのみならず、配役やスタッフ構成にも及びます。『ドクター・ストレンジ』や『ゴースト・イン・ザ・シェル』では、原作ではアジア人だった役が白人に置き換えられていたことに対する批判が起こったことも記憶に新しいですね。
ディズニーの『ムーラン』の実写プロジェクトでは、流出した脚本と企画書からやはり同様の批判にさらされました。流出した資料が制作過程のどの時点のものか不明なまま、ツイッターでもハッシュタグができて批判が拡大していきました。
いまや、ハリウッドは多様性への配慮なしに作品を制作することはできないと言えるかもしれません。それは人種がますます多様になるアメリカ社会の反映でもあるし、インターネット、とりわけSNSによって誰もが声を上げることができる時代になったゆえの産物でもあります。情報の流通が大メディアばかりからであった時代と比べれば、それはとても良い時代になったと思います。
しかし、多くのことについて配慮しながら作品を作ることは実に大変なことでもあります。ともすれば、がんじがらめで動けなくなることもあるかもしれません。本来人種も含め、多様性が促進されることは、表現においても選択肢を増やすことであるはずです。
例えば異人種間の結婚を禁止していたジム・クロウ法があった時代には白人と黒人の恋愛を描く自由はなかったでしょう。今はそれが描けるようになりました。(ジム・クロウ法施行化の南部での白人と黒人の恋愛を描いた『ラビング 愛という名前のふたり』という素晴らしい映画も最近公開されましたね)
多様性の促進が願わくば、製作者を縛るものではなく、自由を増やすものであってほしい。そのためには作品を鑑賞する私たちらも多様性を受け入れることとはどういうことなのかを理解していく必要があるのではないでしょうか。映画にはそれを理解するための多くのヒントがあるはずです。
この連載では、様々な角度、題材から、映画がどうダイバーシティと向き合ってきたかを紹介していこうと思います。その先に映画の表現の多様性がさらに広がることを願って。
第一回目は、ハリウッドを擁するロサンゼルスを舞台にした2つの映画『ラ・ラ・ランド』と『クラッシュ』を取り上げます。奇しくも片方はオスカー最有力と言われながら受賞を逃し、かたや本命ではなかったけど作品賞を受賞したという対称的な結果の作品です。
「LA LA LAND(=夢の国)」の中のLA
筆者は2004年から2010年までLAに住んでいました。初めての海外暮らしで、渡米当初は期待と不安がいっぱいでしたが、そんな筆者のLAの第一印象は「映画で観るよりも、はるかに非白人は多いんだな」でした。街を歩けば、黒人もアジア人も、中東系も、ヒスパニックやラティーノもたくさん見かけます。いろんな言語が飛び交っていますしね。「人種のるつぼ」という単語は知っていてもその実感はやはり訪れてみて初めて実感できるものでした。
アメリカは都市によって人種構成比は大きく変化しますが、あくまでLAにはLAを舞台にした作品群よりもはるかに多様な人種が共存している街なのだと思い知らされました。
本年度、オスカー作品賞を惜しくも逃した『ラ・ラ・ランド』もLAを舞台にした作品です。知っている街が映画の舞台になるとやはり心躍ります。ジェームズ・ディーンなどが描かれた壁画の前も何度も通ったことがあります。懐かしい街並みが映るたびに感慨深かったのですが、この懐かしさは正体はなんだろうとふと思いました。本作の主要登場人物は(ジャズシーンを除けば)多くが白人です。筆者が5年間暮らして体感したLAよりも白人が多いという印象を受けます。そして、本作は、ファッションなどが意図的に往年のミュージカル映画などを参照していたりして、ハリウッド黄金時代の作品を彷彿とさせる面があります。スマホなども登場するので、過去の話ではおそらくないのでしょうが、意図的に時代設定をぼかしているフシがあります。
ここに筆者の感じる懐かしさの正体があるように思います。筆者の記憶の中の映画の1シーンを想起させる数々の演出は、筆者のリアルなLAの体験よりも、今まで観た映画の記憶を呼び起こしたのだろうと思います。
『ラ・ラ・ランド』とは、LA地域の愛称ですが、「夢の国」という意味もあります。まさにこの映画は夢の中(映画の中)のLAを描いた作品であって、リアルなLAを活写しようという志向の作品ではないんですよね。
多人種が車を通じてぶつかり合う『クラッシュ』
「ロスじゃ触れ合うのは無理 人々はたいてい車の中にいる でも触れ合いたいのさ ぶつかり合って何かを実感したいんだ」
2006年のアカデミー作品賞を受賞した、ポール・ハギス監督の『クラッシュ』はドン・チードルのこんな台詞で始まります。この映画は、筆者のLA在住での実地体感にとても近い感覚を持った作品です。白人、黒人、プエルトリコとエルサルバドルのハーフ、ペルシア人、メキシカン、アジア人と数多くの人種が登場し、それぞれのコミュニティで生きている様子が描かれます。何も起きなければ交わることのない人種たちが、交通事故をきっかけにして衝突し、時には理解を示したりする模様が群像劇の形で描かれます。
『クラッシュ』というタイトルはLAが車社会であり、交通事故でも起きない限り、他の階級の人と出会うこともない、という皮肉が込められています。そういえば『ラ・ラ・ランド』でミアとセバスチャンが出会うのも渋滞でしたね。渋滞はLAに住む人を常に悩ませる問題ですが、渋滞がなければこの2人も出会うことはなかったんですよね。
車社会とは、単に車がないと移動が不便だ、というだけの意味ではありません。LAではどんな車に乗っているかによってその人の所得や階級が判断されるような風潮があります。バスに乗ろうものなら、それは貧困であること言っているにも等しい。「In LA, a car describess who you are(LAでは車があなたが何者であるかを表現する)」とLAの大学である教授が言っていたのをよく覚えています。
『クラッシュ』の作中で、2人の黒人青年がバスに乗るか乗らないかで言い合うシーンがあります。リュダクリス演じる青年が、連れがバスに乗ろうとしているところ「やめろ イカれたのか」と止めるシーンがあります。続いて彼はこう言います。「お前 なんでバスにあんなデカい窓がついてると思う? 俺らを晒し者にするためだ」と言います。
日本の感覚ではバスに乗るだけでなんの晒し者になるのだろうと思うかもしれませんが、LAではバスに乗るのは貧困層ばかりなので、ようするに貧乏者を晒し者にしているんだ、と彼は言っているわけですね。
リベラルなイメージ作りに利用される黒人刑事
ハリウッドを巡る多様性について、様々な知見を与えてくれる本作ですが、中でもドン・チードル演じる刑事のこんなシーンはアメリカでリベラルの複雑さが現れています。
ドン・チードル演じるグラハム刑事は、ある日主任調査官への昇進を打診されます。打診してきた上司は、これは白人の検事の意向だと言います。アメリカでは検事も選挙によって選ばれるのですが、その検事(サンドラ・ブロック演じるお高く止まった白人女性の夫)は、当選のためには黒人の票も必要で、リベラルなイメージ作りに余念がないのです。カリフォルニアは多人種の共存する州ですし、大統領選などでも常に民主党が勝利する州でもあります。そういう州では差別的だと思われたら票に響くわけですね。
そのため彼は「世間にメッセージ」を送りたいと考え、グラハムへの主任調査官をオファーすることにしたのです。これに対してグラハムは「黒人を買いましたというメッセージですか ご厚意だけ頂きますよ」といって辞退します。そんな印象操作のために利用されるのはごめんだというわけです。
今年度のアカデミー賞も、昨年の「白すぎるオスカー」の反動として、世間へメッセージを送りたかったのでは、という指摘があります。それは『クラッシュ』の白人検事の態度とも近いのかもしれません。
『クラッシュ』ではハリウッドの人種意識に関して別の視点からも批判を加えています。テレンス・ハワード演じる、売れっ子の黒人TVディレクターは、ドラマのプロデューサーに黒人の若者が知的に喋りすぎている、もっと「らしい」しゃべり方、軽い感じにしろと指示され(字幕では「んな話、すんじぇねえ」と言うところを、「そんな話するな」と言っていたぞと表現しています)、葛藤しながらそれに従います。人がしばしば抱くステレオタイプなイメージについての批判ですが、表現の現場でもこうした無自覚な偏見は存在しています。
トランプ政権が誕生し、アメリカ中が人種問題について揺れている今、アカデミー賞が求めたメッセージは「夢の国」ではなかったのでしょう。そして世間に発したいメッセージいかんで対応が変わる姿勢は、リベラルとは本来どんなものであるのか、考えさせられます。『クラッシュ』にはそうした人種問題のみならず、人種を巡る政治的立場にも批評的な視座を与えています。
ハリウッドはこの問題にこれからも挑み続けるほかないのですが、少なくともアカデミー賞には、そうした『クラッシュ』のような、ともすれば自らを批判するような内容をも含む作品を評価できる懐の深さもまた存在しています。イメージや政治的メッセージを超えた多様性のあり方を映画が示してくれる日も来るに違いないし、そうであってほしいと筆者は願っています。
(c)2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND.Photo courtesy of Lionsgate.
※2021年3月28日時点のVOD配信情報です。