エド・ウッド。史上最低の映画監督として知られる一方で、クエンティン・タランティーノやティム・バートンなど熱狂的なファンがいるカルト監督です。ティム・バートンはエドの伝記映画『エド・ウッド』を監督し、映画がヒットしたことでエドの知名度が飛躍的に向上しました。
『エド・ウッド』はデビュー作『グレンとグレンダ』、『怪物の花嫁』、そして最も知名度が高く”史上最低の映画”の名を欲しいがままにしている怪作『プラン9・フロム・アウター・スペース』完成までを描いた作品です。
徹底してエド・ウッドの監督としての無能さと映画制作に対する情熱が伝わってくる内容なのですが、エドは本当に史上最低の映画監督だったのでしょうか?本当に最低の監督なら、なぜタランティーノやティム・バートンが魅了されたのでしょうか?上記3本の映画を見ましたので、考えてみたいと思います。
Amazon Prime Videoで観る【30日間無料】『グレンとグレンダ』女装趣味を認めてもらいたいことがヒシヒシと伝わってくる怪作
デビュー作『グレンとグレンダ』(1953)は1952年に世界で初めて性適合手術を受けた写真家、クリスティーン・ジョーゲンセンをヒントにした作品です。実際にはエド・ウッド自身の女装趣味がテーマになっているのですが…。主演はエド・ウッド自身。
『エド・ウッド』ではエドの憧れのスターで当時すっかり忘れられた俳優になっていたベラ・ルゴシによる迫真の演技と、エドが彼女に女装趣味を認めてもらうシーンのみが登場します。完成フィルムを見た映画会社の偉い人がジョークと勘違いしてバカ笑いするシーンがとても印象的でした。
実際の『グレンとグレンダ』は、女装趣味の男性が自殺した事を機に、そのような男性の心理を知りたくなった警部補が心理学博士から2人の女装趣味男性の物語を聞くという内容で、エド自らが演じたのはそのうちの1人の物語だったんです。
駄作だけど、魅力もあった
この映画には普通の映画では考えられないおかしな点ばかり。伝わってくるのはエドの「俺の女装趣味を認めてもらいたい」という強い思いだけ。しかし、中盤の唐突な「おどろおどろしい心的描写」から連想されるのはエド・ウッドファンであるデヴィット・リンチのデビュー作『イレイザーヘッド』なのです。
『グレンとグレンダ』は制作側の意向により無理やりポルノシーンが挿入されています。それまで退屈なナレーションとベラ・ルゴシの物語と全く関係ない怪演、おもしろみのない会話で構成されたいた映画が、ポルノシーンの開始を機に突然心的描写で語られていく。
女装趣味男性が直面する世間からの圧力、押し付けられる常識に潰されそうな男のシュールな心的描写は、『イレイザーヘッド』の主人公が少女の幻影に導かれて迷い込んだ不気味な世界によく似ています。デヴィッド・リンチが『グレンとグレンダ』を参考に『イレイザーヘッド』を作った可能性は否定できません。
そして『エド・ウッド』の最も有名なシーン(上記画像)の感動をまとったバカバカしさも魅力の一つ。全体的にストーリーテリングは最低で退屈だけど、確かに魅力があります。一部で熱烈に支持されているのも納得、駄作だけど。
『怪物の花嫁』一番まとも。一番退屈。
『エド・ウッド』で2番目に登場する映画。実際には4作目でした。放射能により超人を生み出そうとする博士(ベラ・ルゴシ)を取材する女性記者が囚われの身になってしまう、という内容で、見どころはベラ・ルゴシの演技とタコの資料映像、巨大タコのセットに襲われる博士のがんばりくらい。
『怪物の花嫁』の撮影中、モーターがないので動かない巨大タコのセットを自分で動かしながら襲われる演技をするベラ・ルゴシのシーンは『エド・ウッド』の見どころのひとつ。実際にはその頃のベラに大暴れするような体力はなく、別人が演じているんですけどね。
この映画は名優ベラ・ルゴシが主演している上に脇役の演技がなかなか良いので、取り上げる3作の中ではもっとも「まとも」です。巨漢レスラートー・ジョンソンは演技がヘタ、だからこそニブい怪物をしっかり演じられているし、「世界征服を企む博士の助手が無能ってどうよ」という点以外に突っ込みどころはあまりないんです。
そのせいで、ただでさえ物語がつまらない映画なのに、突っ込みどころが少ないせいで映画を楽しむ手段はゼロと言っても過言ではないほど退屈な映画になってしまっているんです。他のエド・ウッド映画にはある強烈なデタラメさがない。普通につまらない映画です。
まともが故につまらないなんて皮肉な話です。エドには映画作家としての才能が全くなかったということがよく分かる映画です。
『プラン9・フロム・アウタースペース』伝説の突っ込みどころ満載映画
エド・ウッドの名が世に知れ渡るきっかけになった怪作!映画製作を志す人間が作ったとは思えないほどデタラメで、強烈な印象が残る映画です。次から次へと出てくる突っ込みどころに反応し続けているうちにトランス状態に入り、面白いと思ってしまう人がいるというキワモノ。
エド・ウッドは『プラン9』を自身の最高傑作と信じて疑いませんでした。『エド・ウッド』ではスポンサーに口を出されることに憤ったエドが酒場で憧れの映画監督オーソン・ウェルズと出会い、「他人の夢を撮ってどうなる? 夢の為なら戦え」という金言を受け映画を完成させる過程が感動的に描かれています。撮影風景は突っ込みどころだらけだけど。
実際の『プラン9』も突っ込みどころだらけ。物語はとても退屈で、表現技法もメチャクチャなので普通の映画を観るスタンスでは絶対に楽しめません。ストーリーを追って観ると眠くなりますから、この映画は線ではなく点で見る必要があるのです。
大体の突っ込みどころは『エド・ウッド』でも描かれていますし、ここでは書き尽くせないほど突っ込みどころばかりなので『エド・ウッド』をぜひ観ていただきたい。
簡単に言うと、さっきまで昼だったのに突然夜になる、マイクの影が写り込むNGシーンを使っている、どう見ても墓がダンボールでできている、ベラ・ルゴシが交通事故に会う時の悲鳴がダサい等です。
とにかく規格外な映画です。強烈な映画です。『エド・ウッド』を観たあとで観るとより楽しめますが、エドが意図していたものとは別の面白さなのがなんとも言えません。これを傑作だと思っていたなんて、よほど世間と感覚がずれた人だったのでしょう。
Amazon Prime Videoで観る【30日間無料】なぜエド・ウッドは史上最低の映画監督と呼ばれるようになったのか
エド・ウッドを擁護する人がよく言うのは、「エド・ウッドよりも酷い映画監督は沢山いるし、彼の映画よりも酷い映画は沢山ある」ということです。
この言葉は正しいと私は思いますし、現にIMDb(インターネット・ムービー・データベース)の最低映画リスト100にエド・ウッド映画は1本もランクインしていません。
『プラン9』は確かにひどいけど、観て不快になる人はあまりいないのではないでしょうか。デタラメすぎて逆に面白くなってきてしまうし、「なにかすごいものを観てしまった」という気持ちになりますから。これは貴重な映画体験ですよ。一方で観ると不快になるほどつまらない映画は確かに存在します。
では、なぜエド・ウッドは史上最低の映画監督と呼ばれるようになったのか?それは『プラン9・フロム・アウタースペース』が深夜テレビの映画枠で繰り返し放送されたからです。
『プラン9』はあまりのつまらなさに買い手がつかず、テレビ局が安く買い叩いて深夜枠の穴埋めとして連投したんです。それを見た視聴者が「なんだかとてもつまらない映画が放送されている」と騒ぎ、1980年に「ゴールデンターキー賞」という本で歴代最低映画として紹介されたことがきっかけで「史上最低の映画監督」として知られるようになってしまいました。
生まれるのが早すぎた「映画界のゴッホ」
生前は1本も評価されることなくこの世を去り、死語評価された(?)ことからエドは「映画界のゴッホ」と呼ばれることがあります。エドはあふれんばかりの創作意欲だけで映画を作っていました。ハリウッドの商業映画にはない「俺はこういうことがやりたいんだ!手に余ってるけど!」という情熱。ファンはその情熱にやられてしまったのです。
でも、タランティーノやティム・バートンのように熱烈に支持するファンもいます。エドがあと10年遅く生まれていたら、彼の人生は大きく変わっていたかもしれません。「史上最低の映画監督」はあくまで愛称。実際には「映画オタクに愛された、早すぎた映画監督」と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、かの珍作『死霊の盆踊り』(1965)はエド・ウッドの監督作品ではありません。エドは脚本を書いただけです。半裸のねーちゃんが踊ってるだけのクソ映画に脚本があるなんて信じがたいですが。
※2020年10月28日時点のVOD配信情報です。