「もうすぐ死ぬ」と家族に告げるために、12年ぶりに帰郷する34歳の作家ルイ。長い空白の果てに彼を待つのは愛? 許し? それとも――?
2009年に『マイ・マザー』で監督デビュー以来、グザヴィエ・ドランは常に映画シーンの最前線を疾走。『胸騒ぎの恋人』『わたしはロランス』『トム・アット・ザ・ファーム』、そして『Mommy/マミー』と、一作ごとに批評家をうならせ、ファンを魅了してきました。
監督第6作となる『たかが世界の終わり』では、2016年のカンヌ国際映画祭グランプリを獲得。
「無関心な知恵より、情熱的な狂気」というノーベル文学賞を受賞したフランスの小説家アナトール・フランスの言葉で締め括った涙の受賞スピーチは、世界中に大きな感銘を与えました。
ところがこの作品、日本では比較的静かなうちにその上映が終わった感があります。
アスペクト比1:1(正方形)という異例のスクリーン・サイズで上映され、センセーショナルを巻き起こした『Mommy/マミー』のあとだっただけに、ファンはもっと刺激的な「サプライズ」を期待したのかもしれません。
しかし、ドラン監督が「映画界の救世主」と呼ばれる理由は、決して見てくれの新しさや意外性だけではありません。
ここでは『たかが世界の終わり』をさまざまな角度から深堀りすることで、“アンファン・テリブル(恐るべき子供)”と称されるグザヴィエ・ドランの映画の魅力に迫ってみます。
目隠しをする小さな子供が意味するものは?
物語は作家として成功した32歳のルイ(ギャスパー・ウリエル)が12年ぶりに帰郷するところから始まります。
そのモノローグにより、彼がこの旅を「自分であり続ける」ためのものととらえていること、つまりは、かなりの強い意志を持った人物であることが観客に伝わる仕組みになっています。
おそらく彼は周りの思いなど意に介せず、自分の夢と野心だけを胸に家を出たのでしょう。
連絡が途絶えていた問題児が久しぶりに家族の前に姿を現す――。
いわゆる「放蕩息子の帰還」をモチーフにした映画は、そう珍しいものではありません。近年の日本映画に目を転じてみても、ざっと次のような作品が思い当たります。
たとえば、親に勘当され香典泥棒の日々を送る兄『蛇イチゴ』(西川美和監督)。あるいは女優として失敗した傲岸不遜な姉『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(吉田大八監督)。さらには、金と酒癖の悪い風来坊の『おとうと』(山田洋次監督)。
これらの映画に共通するのは、彼ら「放蕩の帰還者」が客観的目線で描かれていること。それに対して本作は、あくまで「成功した帰還者」ルイ自身の主観的目線で描かれていきます。
しかし、そのルイの頭の中はといえば、家を出たこと、そしていままた戻ることへの自己正当化ばかり。残された家族が歩んできたであろう人生には、まるで思いが至らない。それを象徴するのが、(ルイが)旅立つ飛行機の中で、シートの後ろからルイにそっと目隠しをする小さな子供です。
「あなたは何も見えていない」
しかし、家に向かうルイの心は違います。
「私の家にはドアがない。家は救いの港じゃない」
♪ Home is where it hurts/Camille より
彼の行動を後押しするかのように大音量で流れるCamilleの「Home is where it hurts」に、早くもこの物語の絶望的な行く末が見えてきます。
マイノリティという個性が広げるジャンルムービーの可能性
グザヴィエ・ドランは自らがゲイであることをカミングアウトしました。映画の中でもしばしばLGBTやADHD(注意欠陥・多動性障害)といった、世間的にはマイノリティとされる人たちを主人公として取り上げてきました。
たとえば『トム・アット・ザ・ファーム』。
亡くなった同性の恋人ギョームの葬儀に出席するために、彼の故郷を訪れた主人公トムをめぐるスリラーです。トムは、ギョームの兄フランシスから、トムと弟ギョームの関係(同性愛)は絶対に母親には口にするなと脅されます。
これがもしハリウッドや日本映画だったらどうでしょう。物語の進む先は差別をテーマとした社会派映画へと向かうことが予想されます。
ところが、ドラン映画にあってのそれ(ゲイ)はひとつの「個性」。その「個性」を彼はサスペンスを高める構成要因の一つとして用いています。
では、本作『たかが世界の終わり』ではどうでしょうか。
時間を自在に操るドラン・マジック
12年の不在、自らの死を告げる――。
重い気持ちで家のドアを叩くルイを迎えたのはふたりの女性。ひとりは兄の存在をおぼろげにしか覚えていない妹シュザンヌ(レア・セドゥ)。そしてもうひとりは、兄嫁カトリーヌ(マリオン・コティヤール)。
果たして初めて会うカトリーヌには、ルイがゲイであること、あるいは家を出た理由はどこまで知らされているのでしょうか?
カトリーヌに扮するのはマリオン・コティヤール。もとより大きな瞳の彼女の潤んだ眼は、この役を待っていたといっても過言でないほど。
くもりのないカトリーヌの澄んだまなざしに、雷に打たれたように感応するルイ。この出逢いをドランは被写界深度浅くゆるやかな切り返しショットで、時間たっぷりに映し出してゆきます。そう、「この幸せなときよ、永遠に続け」とばかりに。
ドランがここで試みているのは、現実に流れる時間を幸福な映画の時間へと引き伸ばすこと。ガブリエル・ヤレドの祝福にも似た甘美な旋律も終わるころ、私たち観客はふと気づきます。
カトリーヌこそがこの映画のキーマンであり、ルイが自らの「死」を告げるのはカトリーヌ。いや、もしかするとカトリーヌの方から、彼の帰郷の真意に気づくのではないかと……。
このサスペンスは、部屋でひとり過去に思いを馳せるルイにかけたカトリーヌのある一言でピークに達します。
「いつまでですか?」
心臓も止まらんばかりにドキッとするルイ。もしや命のタイムリミットを問われたのではないか……。そしてその動揺は、冒頭のルイのモノローグによって、彼に同化している私たち観客の心も大きく共振します。
不穏感を増幅させる夕陽、回転移動撮影
自分に家を任せて勝手に街に出ていった弟ルイ。その弟が妻と心通わせているのを目にするのは兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)にとっては、おもしろいはずはありません。
もとより家族の期待は弟ルイにあり、母マルティーヌ(ナタリー・バイ)は長年不在だった息子にこう説きます。
「誰が家を仕切るかは、年齢には関係ない」
ルイには兄にはない器の大きさ、収入、幸運、美しさ、才能がある。兄を解放してあげてほしいと……。
しかしそれが裏目に出たのか、ルイは取り返しのつかないミスを犯してしまいます。それまでの寡黙から一転、これからの自分は変わるよと饒舌に語り始めるルイ。畳みかけるように彼は続けます。
「(兄さんは)街が好きだろ」
しかしそれこそが兄の琴線に触れる言葉。物語は悲劇の結末へ向かって一気に加速してゆきます。
弟を力づくで追い出しにかかるアントワーヌ。窓から差し込む夕陽で部屋は紅く染め上げられ、家族再会の終焉の<時>を暗示します。
その中で、ひとりどうしていいか分からず呆然と立ちすくむカトリーヌ。カメラは不安定な回転移動撮影で彼女をとらえ、場の不穏感を増幅させます。そして迎える破局。
ひとり部屋に取り残されたルイの目に映ったのは、鳩時計から飛び出し、また時計に戻る鳩。さて、これは何を意味しているのでしょう?
2回4時を告げる鳩が意味するものは?
ルイが家を訪れたまさにそのとき、この鳩は一度大きな声で午後の1時を告げています。3時間後のいまその鳩は4回鳴き、壁に体をバタバタぶつけたあと時計に戻り、また4回鳴きます。
これは少し変ですね。時間が進んでない。そう、これはルイの幻想。彼はこの鳩に自分を重ねたのでしょう。
鳩(ルイ)は時計(家)を飛び出して傷つき、また時計(家)に戻ってきた。しかし時は流れておらず何も変わってはいなかった…。
しかしほんとうにそうなのでしょうか? ルイがドアを開けて家を去っていった後、私たちが目にするのは、床に骸(むくろ)を横たえた無残な鳥の姿。それが暗示するのは……。
なんという救いのないエンディングでしょう。
初めてこの映画を観たとき、私は光と時間を自在に操るグザヴィエ・ドランのめくるめく映画話法に酔いしれながらも、最後どっと疲労が押し寄せるのを感じました。
しかしそれもまた映画というものでしょう。さまざまにぶつかり合う感情の波に揉まれながら、自分とは別の人生を送る。得がたい99分の体験が、この映画にはあるのです。
(C)Shayne Laverdière, Sons of Manual、(C)2013 – 8290849 Canada INC. (une filiale de MIFILIFIMS Inc.) MK2 FILMS / ARTE France Cinéma (C)Clara Palardy
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