遂に本日、9月18日より『セッション』のレンタルが開始となります。
劇場公開当時、映画評論家の町山智浩さんと、ミュージシャンの菊地成孔さんが論争を繰り広げたことでも有名な作品です。そこで、本項では何故1本の映画から、相反する考え/解釈が生まれたのかをひも解いていくために『セッション』を解体してみます。
ラストまでを含めたネタばれを書きます。未見の方はまず観賞をおススメします。
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映画が始まってすぐ、主人公ニーマンと父親が『男の戦い(RIFIFI)』という50年代のフレンチ・ノワール映画を見に来ます。ニーマンは売店の女の子ニコルに気があるのに、じっと見つめるだけです。席につくと父親がデカいポップコーンを持って待っていて、そこにレーズンを入れるのが彼ら父子の習慣のようです。しかし、ニーマンはレーズンが嫌いだ、と告白して父親を驚かせます。
「そうだったの? 初めて知ったよ……」
映画の序盤で印象付けられるニーマンくん像は「主体性が無く、イヤなことでも父親がそうと言うなら付和雷同するへタレ」です。本当は嫌いなレーズンを、父親が入れるというから言われた通りに入れるのです。主体的に何かを考えたり、率先して決断するということが出来ない男なのです。
そして、父子が見ている映画『男の戦い』は強盗団と地元を仕切るギャング団との宝石をめぐる、タイトル通り「男の戦い」を描いています。「これからへタレが男の戦いに挑みますよ」という前フリになっているのです。
主体性を奪う男
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音楽大学に入学したばかりのニーマンが鬼教官フレッチャー率いる選抜バンドに引き抜かれます。選ばれたことでイイ気になっていましたが、いざ練習が始まるとブートキャンプばりの鬼指導が続きます。
「チャーリー・パーカーは舞台の上でしくじってドラマーのジョー・ジョーンズにシンバルを投げつけられ舞台を退散した。そこから「バード」というあだ名がついた。」と、フレッチャーは自分をチャーリー・パーカーに偉大なプレイヤーたらしめるきっかけを与えたジョー・ジョーンズに重ねているのです。
フレッチャーが坊主頭で筋骨隆々な男なのは、意図的に海兵隊の鬼軍曹を連想させるためです。海兵隊の訓練は「洗脳」とほぼ同じ工程をたどります。一度、人格を全面否定して崩壊させて、まっさらな状態にした上で、新しい目的や指標を与え、褒めて伸ばす。訓練を終えた海兵隊員は平気で人を殺せる殺人マシーンとなるのです。つまり、自分で考え、主体的な行動をさせない工程です。フレッチャーの指導も、ただひたすら言う通りに叩けていれば良いという、文字通りドラム・マシーンにしかならないものです。
「主体性のない男」として登場したニーマンは、「主体性を奪う男」フレッチャーと出会い、フレッチャーの望みを叶えることしか生きがいの無い男にアッという間に成り果てます。交通事故で血だらけになりながらも演奏をさせろと詰め寄るのは「フレッチャーの言う通りにドラムを叩く」以外の生きる目的が無いからです。
その、たった一つの目的を、他ならぬフレッチャーに奪われると烈火のごとく殴りかかります。それが出来なければ徹底的にもぬけの殻になってしまうという恐怖からです。
何もなくなったへタレ
大学を放校となったニーマンは好きでドラムを叩いていたハズが、いつしかフレッチャーの言う通りにしか叩けなくなり、そのフレッチャーから拒絶され、本当に何の目的も無くなってしまいます。
そんな彼の元に、弁護士が訪ねてきます。かつてフレッチャーがいびり倒して自殺に追い込んだ生徒の親が「これ以上フレッチャーの犠牲者を出さないため」訴訟を起こすというのです。この申し出にニーマンは「オレに何を言わせたいの?」と聞き返します。
ここに至ってもニーマンにまだ主体性が無い証拠です。自分が何を望まれているのかを聞き、望むように動こうという、鞭打たれてからようやく動く主体性の無い家畜根性です。かつて、自分の唯一の目的だったフレッチャーがどうなるか、全く理解はしていなかったでしょう。
ニーマンは通りがかりのジャズバーでゲスト出演しているフレッチャーと再会し、罠を仕掛けられます。カーネギーホールという大舞台。大勢の客。大勢のスカウトマンの前で、一度も練習していない曲をふられ、へろへろになって演奏を中断させてしまいます。
ニーマンはここで舞台を降ります。しかし、チャーリー・パーカーのそれとは全く意味が違います。舞台袖には小さな頃にドラムをたたくニーマンを「さすがオレの息子だぜ!」とビデオに納めていた父親がいます。その優しい父親に泣きつきますが思い直し、踵を返すのです。
ここからニーマンの反撃となります。
へタレの復讐
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学校から追放され、大勢の客とスカウトマンの前で恥をかかされ、唯一の生きる目的だったフレッチャーには弁護士にタレこんだ復讐をされ、徹底的に何もなくなったニーマンが、ついに主体的にドラムを叩き始めるのです。
メンチを切りに近づくフレッチャーの目の前でシンバルを跳ね上げ威嚇します。フレッチャーはしかたなくポーズで指揮を取りますが、実質的にメンバーたちを動かしているのはニーマンのドラムです。ついに曲が終わろうという大団円。全ての楽器が高らかに鳴らされている中で、ニーマンは一人ドラムソロを始めます。
ここで遂に、フレッチャーとニーマンの関係は完全に逆転します。フレッチャーはニーマンのために楽団にキューを出す係に成り果てるのです。
タイトル「ウィップラッシュ」の意味
『セッション』の原題は『Whiplash(鞭打ち)』です。劇中で演奏される曲名であり、スパルタで“ビシビシ”としごく様子、さらにドラムを激しく連打する様子を意味しています。さらに「鞭打ち」という行為の持つ、主従関係をも重層的に匂わせています。鞭を打つのは「主人」であり、苦痛を与え、怯えさせ「家畜」を従わせます。正にフレッチャーの指導そのものです。
ラストで演奏されるのが「キャラバン」(ジプシーやサーカスなどの荷馬車群)なのは意図的です。それまではフレッチャーが振っていたスパルタの鞭(ウィップ)の指揮を、ドラムスティックの連打(ラッシュ)で奪い、楽団員(キャラバン)を一斉に動かすのです。
それまでフレッチャーの「家畜」でしかなかったニーマンが鞭を奪い、真の男として鞭を振るう側になるのです。
『セッション』は何についての映画なのか?
本作は監督のデイミアン・チャゼルの実体験を元にしているそうです。監督自身が若い頃にドラムを叩き、しごかれまくったあげく身体を壊して音楽への道を断念した、その経緯の怨念を込めた物語です。
ただ、『セッション』は音楽でなくても成立する普遍的な物語を骨格として持っています。ドラム(ジャズ)を他の何かに置き換えても成立します。フレッシュサラリーマンと上司との戦いにも、スポーツの選手とコーチの話にも置き換えは可能です。
実績や権威があるのか無いのか解らないけどやたらとエラそうな年長者と、まだ右も左もよく解らない若者が、主導権を奪いあう。というのが『セッション』物語の“核”になります。
この“核”を踏まえれば、会社員として仕事をして、実績を残しながらも認められず出向させられ、その新天地で業績を上げてもさらに認められず、同業他社にイヤミを言われてパイ投げつけて会社を飛び出し、映画評論家として大成した町山智浩さんが本作を褒め、擁護する理由もおのずと解ると思います。
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※2022年8月29日時点のVOD配信情報です。