【ネタバレ解説】映画『ブレードランナー 2049』続編として考察する賛否両論の理由

2018.09.01
映画

ヒットガールに蹴られたい

竹島ルイ

フィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を原作として、1982年に製作されたSF映画『ブレードランナー』。

ブレードランナー

酸性雨が降りしきるなか派手なネオンが妖しく光る、陰鬱で退廃的な近未来。歌舞伎町や香港を思わせる汎アジア的なビジュアルは、世界に衝撃を与えた。以降のSFの映像パラダイムは、完全に『ブレードランナー』に支配されてしまったほど!

それから35年の時を経て、2017年に公開されたのが待望の続編『ブレードランナー 2049』。前作にも勝るとも劣らない難解映画と思われている作品だが、「難しい=つまらない」と一刀両断してしまうのは筆者的に哀惜の念に堪えません。

という訳で、今回は『ブレードランナー 2049』をネタバレ解説していきましょう。

ブレードランナー2049

映画『ブレードランナー 2049』あらすじ

前作『ブレードランナー』で描かれた2019年から本作の2049年に至るまでの重要な出来事の数々が、実は3本のショートフィルムとして製作されていることをご存知だろうか。『ブレードランナー2049』をより深く理解するために、その前日譚を描いたショートフィルムのストーリーを紹介しておこう。

■2022年:レプリカントのテロと製造禁止

デッカード(ハリソン・フォード)がレイチェル(ショーン・ヤング)と共に姿を消してから3年後。レプリカントのネクサス8型による大規模テロ「大停電(ブラックアウト)」によって世界中のデータが消去され、都市機能は完全に停止。

この事件をきっかけにしてレプリカントは法律で製造禁止となり、度重なるネクサス8型の反乱とあいまって、製造元のタイレル社は倒産に追い込まれる。

ブレードランナー ブラックアウト 2022』 監督/渡辺信一郎

■2036年:新型レプリカントが発明される

盲目の遺伝学者ウォレス(ジャレッド・レトー)が、人間に従順で寿命にも制限がないネクサス9型を発明。政治家に働きかけて、レプリカントの製造再開に成功する。

2036:ネクサス・ドーン』 監督/ルーク・スコット

■2048年:旧型レプリカントの抹殺

違法レプリカントとなったネクサス8型を抹殺するため、警察組織はネクサス9型を導入して徹底した捕獲捜査を行う。バーのいざこざをきっかけにして、逃亡レプリカントのサッパー・モートン(デイヴ・バウティスタ)の所在が明らかになる。

2048:ノーウェア・トゥ・ラン』 監督/ルーク・スコット

■2049年:Kによる調査と捜索のはじまり

ネクサス9型のK(ライアン・ゴズリング)は、モートンの抹殺を遂行。彼が営んでいた農場近くの枯木に白骨死体を発見し、その身元が帝王切開の合併症で死亡した女性レプリカントであることが判明する。

レプリカントに生殖能力が備わっていたことは驚愕の事実で、Kはこの情報が外に漏れないように極秘調査を行う。死亡した女性レプリカントがレイチェルであることを突き止めたKは、行方不明のデッカード捜索に向かうのだった。

ブレードランナー 2049

※以下、映画『ブレードランナー2049』のネタバレを含みます。

前作からの繋がりと6つのキーワード

筆者の私見を述べさせていただくと、『ブレードランナー 2049』は決して難解映画ではない(と思う!)。前作『プレードランナー』を踏まえて鑑賞すれば、基本情報は全て理解できるように設計されている。

本作の鑑賞に役立つ6つのキーワードを列挙してみよう。

1.煮えたつ鍋

Kとモートンが取っ組み合う冒頭のシーン。煮えたつ鍋が印象的にインサートされているが、実はコレ、絵コンテまで作られたものの撮影されなかった前作へのオマージュ。このシーンでピンと来た人は相当な『ブレードランナー』フリークだろう。

2.メビウス・アパート

Kが住んでいるアパートの屋上には、日本語カタカナで「メビウス・アパート」という看板がかかっている。これはフランスの超有名漫画家メビウス・アルザックにちなんだもの。彼の作品「ロング・トゥモロー」は、ビジュアル面において前作の世界観構築に大きな影響を与えている。

3.木彫りの馬

Kが「自分は人間とレプリカントの間に生まれた奇跡の子かもしれない」という想いを抱くことになるきっかけが、幼少時の記憶にあった木彫りの馬。

前作ではデッカードが、「自分もレプリカントかもしれない」という想いを抱くきっかけとしてユニコーンが登場した。「ブレードランナー」シリーズにおいて、馬は“アイデンティティーを根本から揺るがす象徴”として常に現れる。

4.羊の折り紙

デッカードの元同僚ガフが年老いた姿で登場。折り紙好きは年齢を重ねても変わらないようで、前作はユニコーンだったが、本作では羊の折り紙を折っている。おそらく原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」にちなんだものだろう。

5.蜂に刺されても殺さないK

前作で、人間かレプリカントかを判別するフォークト=カンプフ検査をレイチェルが受けるシーンがあったが、その時にこんなやりとりがあった。

デッカード「君はテレビを見ている。すると、君の手首に蜂が這っていることに気づく」
レイチェル「殺すわ」

「蜂を躊躇なく殺す」と答えたことから、デッカードは彼女が他者への共感能力のないレプリカントであることに気づく。

しかし本作のKは、大量の蜂が手に群がっても顔色ひとつ変えずそれを見つめるだけ。それはすなわち、「Kは他者への共感能力のあるレプリカント」であることを雄弁に示している。

ちなみに殺し屋レプリカントのラヴ(シルヴィア・フークス)は、相手を殺すときに場違いな涙を流すが、これは共感能力がうまくアウトプットできていないからだろう。

6.ウォレスが盲目である理由

前作でタイレル(ジョー・ターケル)は、自分が創り出したレプリカントのバッティ(ルトガー・ハウアー)に両目を潰されて命を落とした。

労働力としてレプリカントを大量生産しようと目論むウォレス(ジャレッド・レト)は、“タイレルの意思を継ぐ者”の象徴ゆえに、盲目の科学者として姿を現すのだ。

『ブレードランナー2049』は難解映画ではなくアート映画

前作『ブレードランナー』がカルト映画となったのは、いい意味でも悪い意味でも監督のリドリー・スコットによるところが大きい。

彼はビジュアリストとしての才能は傑出しているが、そもそもストーリーテラーとしては欠陥が目立ちます。一本調子で抑揚がないために語り口は鈍重になりがちで、全体的に説明不足なのでお話がよく分からない。

彼の完璧主義がたたって、現場が大混乱に陥ったというのは有名な話だ(その辺りは制作舞台裏を描いたドキュメンタリー作品『デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー』に詳しい)。

デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー

最初の劇場版は、試写会のリサーチ結果を踏まえてハリソン・フォードのナレーションが追加されているが、それでも「砂漠を歩いていると一匹の亀がいるって何のテストだオラ!」など、意味不明なシーンの連続に観客は完全に置いてきぼりを食った。

しかし説明不足ということは、“鑑賞者に考える余地を与える”ということ。

折しも一般家庭にもビデオ(VHS)が普及したことも重なって、本作は熱心なファンによって何度もリピートされ、あれやこれやとさまざまな解釈を生み出した。しかもこの映画には単純なミスが多く、それが結果的にファンの妄想を際限なく広げさせる結果となる。

最も代表的な例は「6人目のレプリカント」だろう。

LA市警警部のブライアントが、「地球に逃げてきたレプリカントは男3人、女3人の計6人で、そのうち一人は死亡している」と説明するシーンがあるが、実際に映画に登場するレプリカントは4人。

予算の都合で6人目のレプリカントが撮影されなかっただけの凡ミスなのだが、これが「じゃあ6人目は誰だ?」という議論に発展し、有名な「デッカード=レプリカント説」が生まれるきっかけとなる。『ブレードランナー』はストーリーテリングのぎごちなさゆえに、カルト映画となったのだ。

一方、『ブレードランナー2049』の監督に抜擢されたドゥニ・ヴィルヌーヴは、卓越したビジュアリストでありながら優れたストーリーテラーでもあるという、稀有な才能の持ち主。映画自体は極めて理知的に、細心の注意を払ってつくられている。

しかし、映画の端々に「アート映画」っぽさが横溢しており、それがどことなく「難解っぽい感じ」を醸し出していることも事実だ。より正確に言えば、全体の絵作りが“難解映画の代名詞”ともいうべきアンドレイ・タルコフスキーの映画っぽいのである!

例えば、Kがモートンの家に火を放つシーンがあるが、これはタルコフスキー監督作『サクリファイス』で、主人公が贖罪のために家を燃やすシーンを彷彿とさせる。

サクリファイス

レジスタンスがアジトにしている廃墟は、『ノスタルジア』に登場する狂信者ドメニコの住処を思わせ、デッカードが身を潜めているラスベガスのホテルは、『ストーカー』に登場する“望みが叶う特別な場所”ゾーンのようだ(どちらにも黒い犬が登場する!)。

実際、『ブレードランナー2049』のロケーション撮影の大半はハンガリーで行われている。『ブレードランナー2049』は難解映画ではなく、東ヨーロッパ的な雰囲気をまとったアート映画なのだ。

タルコフスキー

『ブレードランナー2049』の構造は恋愛映画

映画雑誌「映画秘宝」の名物企画「ベスト&トホホ10!!」で、『ブレードランナー2049』は2017年度公開映画のベスト1とワースト1位を同時受賞した。それだけ思い入れのあるコアなファンがいたということだろうが、それにしてもここまで極端な結果になったのは何故なのだろうか?

筆者はその理由を、『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の映画としての方向性が全く異なるためだと考えている。

そもそも前作『ブレードランナー』は、『三つ数えろ』や『さらば愛しき女よ』に代表されるようなフィルム・ノワール(虚無的で退廃的な志向を持つ犯罪映画)としてつくられていた。

脚本を手がけたハンプトン・ファンチャーが純粋なSFファンではなかったため、ハードボイルドな探偵映画としての側面を強調したからだ。

三つ数えろ

デッカードは逃げる女性レプリカントを背中から射殺するようなアンチ・ヒーローで、決して道徳的・倫理的な人物ではない。

レイチェルとのラブシーンを思い出してみよう。怯える彼女に無理やりキスをしては、「今度は君からだ」と強要したり、「抱いて」と言わせたり、一方的な情欲を発散するだけではないか!

しかし『ブレードランナー2049』のKは、どこかしら童貞臭が漂う純情派。デッカードと比べると、前作でタイレル社の遺伝子工学技師として登場したJ・F・セバスチャンに近いキャラクターだ。

恋に奥手なKと、AIホログラムのジョイ(アナ・デ・アルマス)とのラブラブっぷりが、結構な尺をとって描かれている点で、明らかに本作は意図的に恋愛映画の側面を強調して構築されている。

アナ・デ・アルマス

35年ぶりに登場するデッカードもまた、かつてのフィリップ・マーロウ的なハードボイルド・キャラではなく、過去の思い出に浸って生き永らえているような、哀しき老人として描かれる。

象徴的なのが、Kとの会話シーン。

K「子供に会いたかったか?」
デッカード「そうでもない」
K「なぜ?」
デッカード「俺たちは追われていたからだ。もし子供が見つかれば、解剖され、調べ尽くされるだろう。時には誰かを愛するなら、他人でいた方がいい」

まさかデッカードの口から「愛するとは何か」について聞ける日が来ようとは! この実直さ、直截さは前作にはなかったものだ。

『ブレードランナー2049』が描くのは、生身の身体を持たないAIを愛したKと、すでにこの世にはいない女性を愛し続けるデッカードの孤愁。

「映画秘宝」のベスト1とワースト1位を同時受賞したのは、この方向転換ぶりを是とするか非とするかで真っ二つに分かれたのではないか、と推察します。

デッカード

「フランケンシュタイン」から「ピノキオ」へ

実は『ブレードランナー』も『ブレードランナー2049』も、核となるプロットは同じ。どちらも、「人間の手によって造られたレプリカントが、自分の存在意義を確かめるために創造主に会いに行く話」である。

前作の『ブレードランナー』におけるバッティは、自らの運命を呪い、自らを創造した神を呪う「フランケンシュタインの怪物」のような存在だった。

しかし『ブレードランナー2049』のKは、「人間になりたい」という素朴な願いを抱く「ピノキオ」のような存在。

実際、監督のドゥニ・ヴィルヌーヴ自身、某インタビューで「ジョイは『ピノキオ』でいえば、ジミニー・クリケットの役割なんだ」と答えている。(※ジミニー・クリケット:『ピノキオ』に登場する旅人のコオロギ。ピノキオの良心役として保護者的な役割を担う

ピノキオはブルー・フェアリーによって願いを叶えたが、Kは人間になれないまま死を迎える。ラストシーンにかかる曲は、前作でバッティが死に間際にデッカードに語りかけるシーンで使われた「Tears In Rain」だ。

思い出はやがて消える。時が来れば、涙のように。雨のように

Kの涙は雨から雪となり、漆黒が代名詞の『ブレードランナー』を白く染める。

何度も繰り返すようで恐縮だが、『ブレードランナー2049』には何ひとつ難解さは存在しない。むしろこの作品の根底に横たわるのは、叙情性にまで高められたリリシズムとセンチメンタリズム。

映画にそっと秘められた想いに気づいたとき、一筋の涙があなたの頰を濡らすことだろう。

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