ヴェネチア国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞し、アカデミー賞でもフランシス・マクドーマンドが主演女優賞、サム・ロックウェルが助演男優賞を受賞した傑作『スリー・ビルボード』(2017年)から5年、マーティン・マクドナー監督待望の新作『イニシェリン島の精霊』(2022年)が現在絶賛公開中だ。
『スリー・ビルボード』に負けず劣らず本作も批評家から絶賛を浴び、ゴールデングローブ賞では最多7部門にノミネートされ、作品賞(ミュージカル・コメディ部門))を含む3部門で受賞。また第95回アカデミー賞でも、作品賞、監督賞、主演男優賞など合計9部門でノミネートされている。今年最も注目すべき作品の一つと言えるだろう。
という訳で今回は、全世界待望の『イニシェリン島の精霊』についてネタバレ解説していきましょう。
映画『イニシェリン島の精霊』(2022)あらすじ
舞台は1923年、アイルランドの孤島イニシェリン島。妹のシボーン(ケリー・コンドン)と二人で暮らしているパードリック(コリン・ファレル)は、いつものように友人コルム(ブレンダン・グリーソン)をパブに誘うが、突然絶縁を告げられてしまう。理由が分からず、戸惑いを隠せないパードリック。さらにコルムは、パードリックに恐ろしい宣言をする……。
※以下、映画『イニシェリン島の精霊』のネタバレを含みます。
元々は演劇作品だった『イニシェリン島の精霊』
監督のマーティン・マクドナーは、ロンドンのキャンバーウェル生まれ。両親はアイルランド人で、子供の頃はアイルランドの西海岸に位置するゴールウェイ県で休暇を過ごしていたという。インタビューを読むと、イギリス人というよりもアイルランド人してのアイデンティティーが幼少期に育まれたことが伺える。
「ダブリンで育った人よりも、アイルランド人であることに誇りを持つように育てられたかもしれませんね。いつもアイルランドの音楽を聴き、ゲーリックフットボール(筆者注:アイルランド発祥の団体球技のこと)の試合をするように勧められました。当時はサッカーのアイルランド代表も活躍していましたから、それがプライドにつながったんでしょう。でも同時に、私はいつも少しアナーキストで、反国家主義者でもあったんです。パンクバンドのポスターやトラヴィス(ロバート・デ・ニーロが演じた『タクシードライバー』の主人公)のポスターを壁に貼っていましたよ」
(マーティン・マクドナーへのインタビューより抜粋)
やがて彼は演劇に興味を抱き、自らの手で戯曲を作るようになる。その舞台となったのは、記憶の中にある風景…アイルランドだった。小さな村リーナンを舞台にした「リーナン三部作」(「ビューティ・クイーン・オブ・リーナン」、「コネマラの骸骨」、「ロンサム・ウェスト」)、ゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島を舞台にした「アラン諸島三部作」(「イニシュマン島のビリー」、「ウィー・トーマス」、「イニシィア島のバンシー」)。この6つの戯曲が評判を呼び、彼は一躍演劇界で注目を集める存在となったのだ。
……いや、正確には“6つ”ではなく“5つ”が正しい。「アラン諸島三部作」最終作となるはずだった「イニシィア島のバンシー」は、マクドナーが納得のいく作品に仕上げることができず、結局上演されずじまいで幻の戯曲となっていた。この未完成作品を映画用に改めて執筆し、晴れてお披露目となったのが本作『イニシェリン島の精霊』なのである(筆者注:バンシーとは死を予見する精霊のこと)。
それにしても、マーティン・マクドナーは生粋のロンドンっ子なのにも関わらず、これまで一度もロンドンを舞台にした作品を作っていない。『スリー・ビルボード』に至っては、イギリスどころかアメリカミズーリ州で繰り広げられる物語だ。
おまけに彼は、「次の映画はイースター島を舞台にする予定なんです」とコメント。マーティン・マクドナーはいつだって、現実に居住している場所ではないどこかを舞台にして、フィクションを構築する。それが彼なりの作劇術なのだろう。
『ヒットマンズ・レクイエム』との鏡像関係
その後も、マクドナーは意欲的に戯曲を手がけていく。「ピローマン」(2003年)はローレンス・オリヴィエ賞の新作演劇作品賞を受賞し、トニー賞では演劇作品賞候補に。「スポケーンの左手」(2010年)は、主演のクリストファー・ウォーケンがトニー賞演劇主演男優賞候補に選ばれた。名実ともに、演劇界の寵児となったのである。
さらにマクドナーは、併行して映画製作にも挑戦。短編映画を経て、長編映画第1作めとして発表したのが『ヒットマンズ・レクイエム』(2008年)。ベルギーの古都ブルージュを舞台に、二人の殺し屋の奇妙な友情と意外な事件の顛末を描く、いかにもマクドナーらしい“ひねり”の効いた作品だ。そしてこの作品で主演を務めているのは、コリン・ファレルとブレンダン・グリーソン。そう、『イニシェリン島の精霊』のコンビなのである。
ある意味でこの2作品は、コインの表裏のような鏡像関係を結んでいる。『ヒットマンズ・レクイエム』は、レイ(コリン・ファレル)の抹殺をボスから命令されて苦悩するケン(ブレンダン・グリーソン)の物語。そして『イニシェリン島の精霊』は、友人コルム(ブレンダン・グリーソン)から絶縁を切り出されて苦悩するパードリック(コリン・ファレル)の物語だ。ある事態に追い込まれた二人の男性が、どのように対峙し、どのように打開していくのか。そのプロセスを、マクドナーは濃厚なタッチですくい上げていく。
『イニシェリン島の精霊』をより深く理解するための補助線として、筆者は『ヒットマンズ・レクイエム』を推奨します。
“残り時間”の物語
そもそも、何故コルムは長年の友人に絶縁を切り出したのだろうか? 不意の絶縁宣言に戸惑うパードリックに対し、彼は「突然お前が嫌いになった」と言い放つが、どうやらその人間性が嫌いになった訳ではないらしい。横暴な警察官ピーダー(ゲイリー・ライドン)にタコ殴りされたパードリックを助け起こし、馬車で家まで送っていく優しさも見せているくらいだ(一言も喋らないけど)。コルムは、彼が“いい奴”であることは認めている。ただ単に、“つまらない奴”なのだ。2時間もかけてロバの糞の話をするような。
作品の中では特に言及されていないが、二人は年の離れた友人であるらしい。40代くらいのパードリックに対して、コルムは還暦近い年齢だろうか。老境に差し掛かり、彼は“残り時間”を強烈に意識するようになる。そして、「パブで馬鹿話をしながら、いたずらに時間を浪費するだけの人生」に疑問を持ち始める。単にいい奴じゃ、歴史に名を残すことはできない。それよりも、人々の記憶に刻まれるような仕事に時間を割くべきなのではないか?作曲にもっと時間を使うべきなのではないか?…と。マーティン・マクドナーにとっても、それは切実な問題だった。
「コルムが抱いている、時間を無駄にしているのではないか?という想いは、パンデミックの期間中私も抱いていました。私たちは皆、自分たちがどれだけ時間を浪費しているか、その後何をしたいかを考えます。以前のようにただ進み続けるのか、それとも時間を取り戻そうと急ぐのか」
(マーティン・マクドナーへのインタビューより抜粋)
1970年生まれのマクドナーは、現在52歳。自分に残された“創造的な時間”は、約25年と見積もっているという。そして舞台よりも映画の方が早いスピードで完成まで漕ぎ着けられることから、今後はフィルムメーカーに軸足を置いて活動すると公言している。だが彼自身は、残された日々をクリエイティブに費やすために、友人を切り捨てたりはしない。「芸術を創造するためには、利己的で残酷でなければならないのか?」という問いに対して、彼ははっきりとNOを突きつける。
「私は、苦悩する芸術家というものには賛同できませんね。映画監督の話はよく聞きますが、最低の人間ばかりですよ。そして、彼らはたいていクソな映画を作っている。私にとっての映画界のヒーローには、本当に嫌な奴は一人もいません。サム・ペキンパーはそうかもしれませんが……。彼はとてもタフな男で、彼の映画にもそれが表現されていますが、彼は誰よりも自分自身を苦しめていたので、それでいいんです。私自身は、嫌な奴に価値を見いだせないんです」
(マーティン・マクドナーへのインタビューより抜粋)
おそらくコルムも、パードリックに負けず劣らず、根っからの“いい奴”なのだろう。彼は“嫌な奴”にはなりきれなかった。自分の決断が、どれだけパードリックを苦しめることになるのか、分かりすぎるくらいに分かっていた。だからこそ、パードリックが自分に話しかけてくるたびに、暴力を振るったり脅したりはせず、自分の指を根元から切り落とすという“罰”を自分に与えるのである。もちろん、パードリックに家を放火されても咎めたりはしない。それが、彼なりのケジメの付け方なのだ。
パードリックがコルムから絶縁されてしまった理由は、“いい奴”だけど“つまらない奴=愚かな奴”と認識されてしまったからだ(実はコルムだけではなく、パブの常連客からも同じように思われていることが明らかになる)。象徴的なのは、パードリックが大事にしているロバの存在。妹のシボーンから家の中に入れるな!と何度注意されても、彼は大事な家族のように扱い、ひときわ大きな愛情を注ぐ。
ヨーロッパのことわざで、ロバは“愚か者”の象徴として扱われる動物だ。だからこそパードリックはロバに自分自身を見出し、大切にしてきた。そんなかけがえのない存在が、コルムの指を口に入れて死んでしまった。パードリックは怒りに震え、コルムの家を燃やすことを宣言。意図的ではなかったとはいえ、自分がコルムに殺されてしまったかのような感情を抱いてしまったのだろう。うーん、なんて悲しい話なんだ。
小さな戦争、大きな戦争
コルムはパードリックに絶縁を宣言した後も、パブに通い続ける。そして二人は決して小さくない衝突を繰り返す。映画を観た人なら、きっとこんな感想を抱くだろう…「絶対会いたくなら、家にこもって作曲活動すればいいのに!」と。
だが、別にコルムは他人との接触を一切断ち切りたい訳ではない。ただ、パードリックに絡んでほしくないだけ。イニシェリン島という小さなコニュニティの世界では、どこに行くにも、何をするにも、いつもの面々と顔を突き合わせなければならない。だからコルムとパードリックとのいざこざのような、小さな戦争が散発するのだ。ムラ社会における人間関係の困難さを、『イニシェリン島の精霊』は残酷に暴き出す。
そして映画を観た人なら、きっとこんな感想も抱くだろう。「…だったら、この島を出て本土に行けばいいのに!」と。映画には、まさにその選択をした人物が登場する。妹のシボーンだ。コルム以上に彼女は、くだらない人々のくだらない会話に辟易としていた。そして指切り事件をきっかけにして、その感情は一気に沸点まで達し、荷物をまとめてアイルランド本土に渡る決心をする。
だが、老境に差し掛かったコルムはそういう訳にはいかない。妻も子供もいない孤独な老人が、住み慣れたコミュニティを離れ、新しい生活を送るのは容易なことではない。彼は死ぬまで、この島でひっそりと生きて行くしかないのだ。その選択は、小さな戦争を受け入れることへのトレードオフである。
もちろん、アイルランド本土に行けば小さな戦争は回避できるかもしれないが、その代わり大きな戦争を受け入れる必要がある。舞台となる1923年当時、アイルランドでは内戦が勃発。多くの犠牲者を出した。島に残るにせよ、本土に向かうにせよ、そこにははっきりと“死”が刻印されている。間違いなく『イニシェリン島の精霊』は、“死”に関する映画だ。不気味な笑いをたたえる老婆マコーミック夫人(シーラ・フリットン)は明らかに死を司る死神であり、原題の“イニシェリン島のバンシー”そのものである。
『セッション』との類似性
筆者が『イニシェリン島の精霊』を観ていて、構造が非常に近いと感じた映画がある。デイミアン・チャゼル監督の『セッション』(2014)だ。
アメリカ最高峰の音楽学校シェイファー音楽院に入学したドラマーのアンドリュー(マイルズ・テラー)は、教師のフレッチャー(J・K・シモンズ)によって初等クラスから最上位のクラスに引き抜かれる。プロのドラマーになれるチャンスが広がったと喜んだのも束の間、フレッチャーの狂気にも似たスパルタ指導によって、ニーマンは精神的にも肉体的にも疲弊していく……というお話。詳しくは、拙稿「【ネタバレ解説】映画『セッション』タイトルに秘められた本当の意味を徹底解説」をお読みください。
アンドリューには、付き合い始めたばかりの超かわいい恋人ニコルがいる。だが突然、“偉大な”ドラマーになるためには恋愛にうつつを抜かすヒマなんかない! という理由で、別れを切り出す。
「ドラムを追求するためには、もっと時間が必要なんだ。君と会う余裕なんてない」
コレって、完全に『イニシェリン島の精霊』のコルムと同じ理屈である。「作曲をするためには、もっと時間が必要なんだ。君と会う余裕なんてない」に、簡単に置き換えられるロジックだ。
1日は24時間と決まっているのだから、何かを成し遂げるためには、何かを犠牲にしなければならない。『セッション』はドラムのために恋愛を犠牲にする物語であり、『イニシェリン島の精霊』は作曲のために友情を犠牲にする物語だ。という訳で、本作をより深く理解するための補助線として、筆者は『セッション』も推奨します。
※2023年2月1日時点での情報です。
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