【ネタバレ解説】映画『君の名前で僕を呼んで』美しいラブストーリーが秘めた「余白」の意味

腐女子目線で映画をフィーチャーしてみる。

阿刀ゼルダ

1983年の夏、美しい少年と美しい青年がイタリアの避暑地で出会い、恋に落ちる――。

「今地球上で最も美しい」とまで称されるティモシー・シャラメと、こちらもニュートラルな美貌が魅力のアーミー・ハマーの夢の共演、究極のラブ・ストーリーとして話題になった『君の名前で僕を呼んで』。

君の名前で僕を呼んで

しかし、高い評価を受ける一方で「同性愛に対する差別や偏見が描かれていない」「80年代同性愛者を逆境に追い込んだエイズ・パニックをなぜ描かなかったのか」という批判も。 

ただ、原作小説を参照しつつこの作品を眺めてみると、実は決して恋愛の美しい上澄みだけを掬い取って描いているわけではなく、美しさと表裏一体のところに深い苦悩が埋められていることがクリアに見えてきます。

例えるなら隠し扉で仕切られた部屋のように、本作には一見しただけでは見えてこないけれど確かに存在する「余白」があるのです。

今回はそんな本作の「見えない余白」を意識しながら、作品に深く埋められたメッセージについて考察していきます。

映画『君の名前で僕を呼んで』あらすじ

毎年夏を北イタリアの避暑地にある別邸で過ごす大学教授の一家に、ひと夏の客人としてアメリカからやってきた大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)。一家のひとり息子、早熟な17歳の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)はオリヴァーに強く惹かれ始めます。そしてオリヴァーもまたエリオに……。

短い夏を惜しむように愛を確かめ合う二人ですが、夏の終わりとともにオリヴァーは帰国。数ヶ月後、その年のハヌカ祭(キリスト教のクリスマスと同じ時期に行われるユダヤ教の祝祭)にオリヴァーからの電話でエリオが告げられたのは、「結婚することになった」という予期せぬ言葉だった。

君の名前で僕を呼んで

※以下、映画『君の名前で僕を呼んで』のネタバレを含みます

メタフォリカルで美しい世界観

原作はアンドレ・アシマンの同名小説、監督は『サスペリア』のルカ・グァダニーノ。

さまざまな形で作品に散りばめられた「古代ギリシャ」というキーワードには、男性同性愛が肯定されていた当時の文化への衒(てら)いない憧憬が込められています。この辺りは、本作の脚本を担当したジェームズ・アイヴォリーの監督作『モーリス』(1987)にも通じるものがあります。

そして、エリオの家を囲む果樹園にたわわに実った桃やアプリコットの果実は、エリオとオリヴァーのお互いの肉体への瑞々しい欲望のメタファー。寓意に満ち、まばゆい陽光に包まれた映像は、進行形の光景でありながら思い出の中の光景にも似た強い輝きを放っています。

君の名前で僕を呼んで

究極の一体感の表現 “CALL ME BY YOUR NAME.”

とにかく女性にモテるエリオとオリヴァー。エリオにはマルシアという親密なガールフレンドがいて、オリヴァーはオリヴァーでたちまちのうちにエリオの周囲の女性たちを虜にします。エリオの母親や家政婦まで「映画スターみたいね」と噂しあうほど。そんな中、早速エリオの女友達といいムードになるオリヴァー。彼もエリオと同じく、男性も女性も愛せるバイセクシュアルのように見えます。

ただし、どんなに女性が群がろうと、エリオとオリヴァーはお互いにとって別格の存在。共にユダヤ人、聡明な二人の響き合うような会話。おそらく二人の間には誰も入れないでしょう。

極めつけは、タイトルにもなっている「自分の名前で相手を呼ぶ」という二人だけのルール。お互いがお互いの半身であることを宣言するにも等しい、究極の一体感の表現。唯一無二の関係、それも異性愛より同性愛というシチュエーションにこそハマる愛情表現です。

この、二人が互いの半身だという発想は、古代ギリシャの哲学者・プラトンの「饗宴」に登場する「人間は本来手足が4本ずつある球体だったものが或る時2つに切り裂かれたもの。ゆえに常に片割れを探し求めている」という神話に基づいています。

ちなみにこの片割れ探しの物語は、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001)や『ダブルミンツ』(2017)などでも引用されています。

『君の名前で僕を呼んで』のポスタービジュアルはまさに「本来一体である二人」を表現した構図。

タイトル、ポスタービジュアルでいずれも「二人の唯一無二の一体感」が表現されていることは、本作を観る上でのひとつの鍵と見ることができそうです。

君の名前で僕を呼んで

ヘラクレイトスの思想が物語る、オリヴァーの生き方

ところで、そもそも「君の名前で僕を呼んでほしい、僕は僕の名前で君を呼ぶ」とベッドの中で囁いたのは、オリヴァーのほう。それにもかかわらず、アメリカに帰国して半年も経たないうちに、オリヴァーは女性と婚約してしまいます。

あれほど二人の絆はかけがえのないものだったはずなのに、なぜ? 

考えてみると、私たちはオリヴァーという人物についてほとんど何も知りません。というのもこの作品はエリオの目線で描かれている上、オリヴァーは異国からやってきたエトランゼ。彼のアメリカの家族や普段の生活は一切見えないからです。

ただ、オリヴァーの内面についての手がかりは、わずかながら作品の中に散りばめられています。

その一つが、彼の研究対象であるヘラクレイトスの思想。

ヘラクレイトスは紀元前6世紀から5世紀を生きた古代ギリシャの哲学者。劇中でも引用されている「万物は流転する」、つまり全てのものは移り変わっていくという思想で知られ、その難解で悲観的な思想から「暗い哲学者」とも呼ばれる人物です。

ヘラクレイトス

このヘラクレイトスの「万物は流転する」という思想は、本作の中でオリヴァーの心変わりを暗示する伏線になっています。つまり、ひと夏最高の恋をしても、その想いは永遠ではない。心は移り変わるものだというオリヴァーのスタンスが、彼の研究対象に仄めかされているわけです。

ただ、原作を読むと、この件に関しては再度の反転が用意されています。映画には描かれなかった15年後と20年後の二人の再会の場面で、オリヴァーは結婚を全うしつつも、実はずっとエリオを想い続けているということがはっきりと描かれています。

つまり、何事にも固執しないことがオリヴァーの生き方であることを匂わせる一方で、実際はそうは生きられないオリヴァーの姿を描いている。このオリヴァーの矛盾こそが、原作小説の核心部と言えるかもしれません。

そもそもオリヴァーはなぜヘラクレイトスを研究対象に選んだのか?

それを考えるには、オリヴァーを取り巻く環境、すなわち80年代当時のアメリカの同性愛に対する社会の逆風を知ることが不可欠に思えます。

逆風に包まれたアメリカのゲイ事情

先述した通り、本作はエリオの視点で描かれており、一方のオリヴァーの視点は意図的に覆い隠されています。つまり、オリヴァーの視点こそが、本作の隠し扉。この扉を開けた時、物語の景色は一変します。

エリオの父親が家に友人のゲイ・カップルを招くシーン(このカップルの1人を演じているのは原作者のアンドレ・アシマンです)にも示されているように、エリオの両親には同性愛者に対する偏見はなく、フラットそのもの。エリオがオリヴァーに比べて脇が甘いのは、年齢のせいだけでなく、偏見を恐れずに済む環境に育ったことも関係していることが伺えます。

君の名前で僕を呼んで

では、オリヴァーは?

アメリカのゲイを取り巻く社会環境は、1960~70年代に盛り上がったゲイ解放運動によって飛躍的に改善されますが、ゲイが基本的な市民権を得ていく中で、その反動としての反同性愛運動も起こってきます。

そんな流れの中、1978年、カリフォルニア州議会に「ゲイ・異性愛者によらず、公立学校の教師が同性愛者の擁護と解釈できるような活動をした場合、解雇することができる」とする条例案(ブリッグス提案)が提出されます。子供の敵であるゲイは教育現場から排除すべき、ゲイを擁護する人間もクビにする、という非常に差別的な法案です。

この法案をめぐる顛末は、アメリカで初めてゲイであることを明らかにして議員となったハーヴェイ・ミルク(1930-1978)の生涯を描いた映画『ミルク』(2008)にも描かれています。

ミルク

当時カリフォルニア州議会議員だったミルクらの尽力もあってこの法案は否決されました。この時オリヴァーは19歳。すでに大学で教鞭をとることを志していたであろう彼は、この顛末をどんな思いで眺めていたのでしょうか。

その後1980年代に入るとエイズ・パニックが発生。しかしエイズを「不道徳な性行為による自業自得」と見なしていたレーガン政権は積極的な対策を講じようとせず、それが米国内の感染者の急増を招いたと言われています。

「同性愛者の病」と言われたエイズの蔓延と政府のエイズへの冷ややかな対応が、ゲイに対する偏見を一層助長させたことは、1980年には「同性愛関係は間違っている」と考える人の比率が73%だったものが、1987年には78%に増加したという当時の世論調査の結果にも表れています。

オリヴァーが生きていたのは、そんな時代。映画スターのようにハンサムで、明るく、誰よりも聡明なオリヴァーですが、彼の背景に目を向けた時、彼の印象はガラリと変わります。そして、彼がヘラクレイトスを選んだ理由にも、新たな可能性が浮上してきます。

ひょっとすると彼は、自分のセクシュアリティを曲げて生きるための鎧として、ヘラクレイトスの思想を選んだのではないか。

実際、原作小説はオリヴァーが本質的にはゲイである可能性を強く示唆しています。

君の名前で僕を呼んで

オリヴァーとスタンダールの小説「アルマンス」

原作の中でオリヴァーが本質的にはゲイであることを暗示する文脈はいくつかありますが、その一つが、エリオがオリヴァーに贈ったスタンダールの小説「アルマンス」です。

原作者のアンドレ・アシマンは文学研究者だけあって、原作にはさまざまな文芸作品が登場し、それぞれが物語の文脈に何らかの意味を注ぎ込むよう仕組まれています。中でも「アルマンス」は、オリヴァーの人物像にある印象を投げかける作品です。

「アルマンス」は、誰も愛さないと心に決めた主人公オクターヴが、周囲の結婚への圧力もあって自分を熱愛する女性アルマンスと結婚するものの、結婚後まもなく彼は1人ギリシャへ向かい、船上で自ら命を絶つという作品。

スタンダールは当初この小説の主人公をオクターヴではなくオリヴィエにするつもりだったそう。「オリヴィエ(Olivier)」を英語読みすると「オリヴァー」になります。

オクターヴは性的不能者と解釈されていますが、結婚や恋愛が(表向きは)異性間でしかありえなかった時代には、性的不能者とゲイが時にはひと括りに扱われている可能性があることに留意すべきでしょう。

「アルマンス」が本作のオリヴァーとつながった途端、女性を愛せないにもかかわらず周囲から結婚を強要され悩む青年のイメージが、オリヴァーを覆い始めます。

ただ、確証ではなくあくまでもイメージ。オリヴァーのセクシュアリティについて決して確証を与えず、半透明のベールに包みこんでおくのが原作の妙技。映画版もそのスタンスを受け継いでいます。

世の中の多くの「オリヴァー」が深く心にしまった思い出に寄り添う物語

君の名前で僕を呼んで

しかしなぜ、オリヴァーのセクシュアリティをベールに包む必要があるのでしょうか?

そしてなぜ、エリオと過ごした夏にはすでに持ち上がっていたであろう結婚の問題、アメリカで彼を待ち受ける同性愛者差別に全く触れなかったのか。そこには、原作者アンドレ・アシマンのある思いが込められているように思えます。

オリヴァーが恐らくそうであるように、本質的にはゲイでありながら異性との結婚を選んだいわゆる“クローゼット・ゲイ”は少なくないはずです。そんな中で、この作品は、多くの「オリヴァー」たちを責めることなく、原作小説の言葉を借りれば「心の中の心」に思い出をしまい込んで生きる彼らの思いに寄り添おうとしたのではないでしょうか。

それゆえに、オリヴァー視点で描けば一転して苦く悲嘆に満ちた物語になってしまうこの作品を、あえてエリオ視点のみで描き、宝石のように美しいひと夏の恋物語にまとめ上げたのではないか。

そう考えて初めて、オリヴァーがエリオに言った「(エリオと愛情を確かめ合えて)僕がどんなに幸せか分かる?」という言葉、いつも理性的な彼がエリオの足にキスした衝動、誰もいない時にだけ見せるオリヴァーの苦しげな表情に、鮮やかな情感を帯び始める気がします。

“Call me by your name.”

『君の名前で僕を呼んで』というタイトルは、その裏側に、唯一無二の相手に出会ったにもかかわらず、別れを選ばなければならなかったオリヴァーの悲しみを秘めているのです。

君の名前で僕を呼んで

ラストシーンを彩る色に込められた意味

別れの日、オリヴァーが着ていたグリーンのシャツは、二人がいた緑が生い茂る夏の色。しかし、ラストシーンのハヌカ祭の日に場面が切り替わった時、あの夏二人を包んでいた風景は一面雪に覆われ、色なき世界に。

屋内の映像からもグリーンは巧みに排されていて、わずかに電話機だけがグリーン。唯一電話だけがエリオとオリヴァーをつなぐ結び目だったにもかかわらず、その日受話器の向こうのオリヴァーが苦しげな声で告げたのは、残酷な訣別の言葉。グリーンの残像にこめられたエリオの希望はついえます。

赤々と燃える暖炉の前で、涙をこらえながら炎を見つめるエリオの表情を映し出しながらの幕。エリオの顏に映る火影のゆらめきと窓の外のふりしきる雪が、オリヴァーを失ったエリオの悲しみを映し出しています。

もっとも、このラストシーンは、季節が巡れば再び緑が芽吹くように、エリオが新たな恋に出会う可能性も示唆しているようにも。このあたりは監督のルカ・グァダニーノが本作を「エリオの成長の物語」だと言っていることと符合しています。

たしかに、この時のエリオにはまだ、オリヴァーが失われた半身だったのかどうかは分からない。その答えに辿り着くには、長い時間とたくさんの恋の経験が必要です。さまざまな出会いと別れを経る中で「君の名前で僕を呼んで」という言葉も、エリオの中で磨き上げられ、輝きを増していくのでしょう。

君の名前で僕を呼んで

そう考えると、この作品は続編があって初めて完結するものにも思えてきます。もとより監督のルカ・グァダニーノは続編製作を宣言していますし、原作者アンドレ・アシマンは現在続編小説を執筆中とのこと。ここは是非ともエリオとオリヴァーの後日談を映画化していただきたいところです。

「君の名前で僕を呼んで」という言葉の本当の重さ、その言葉の主であるオリヴァーの「心の中の心」の鼓動を感じさせてくれる続編を待ち望んでやみません。

参考文献:ジョージ・チョーンシー著「同性婚~ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史」(明石書店)

(C)Frenesy, La Cinefacture

記事をシェア

公式アカウントをフォロー

  • RSS