映画『紅の豚』ポルコはなぜ豚になったのか?本作に込められたメッセージとは?徹底解説【ネタバレあり】

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映画『紅の豚』に込められたメッセージとは?ポルコが豚の姿になった理由とは?ネタバレありで徹底考察。

「カッコイイとは、こういうことさ。」の惹句が似合うカッコイイ男、ポルコ・ロッソ。そんな彼を主人公に描いたスタジオジブリ作品が『紅の豚』です。スタジオジブリ作品の中でも特に大人っぽい不思議な雰囲気ですよね。

今回はそんな『紅の豚』の独特の雰囲気はどこから来るのか。映画に秘められた歴史的背景や、映画に込められたメッセージを紐解いていきます。本作はなぜ魅力的なのでしょうか。

紅の豚』(1992)あらすじ

第一次世界大戦後の1920年代末。世界恐慌の嵐が吹き荒れるイタリア。真っ赤な飛行艇に乗り、暴れまわる空賊相手に賞金稼ぎをするポルコ・ロッソ。彼は呪いにより豚の姿になった凄腕の飛行機乗りだった。目障りなポルコを倒すために空賊たちは、アメリカの凄腕パイロット・カーチスを助っ人に迎え入れる。ポルコと親しいジーナに魅了されたカーチスは、ポルコへの闘志を燃やす。数日後、故障中の飛行艇に乗るポルコはカーチスによって撃ち落とされてしまう……。

※以下『紅の豚』のネタバレを含みます。

紅の豚』の舞台はどんな時代なのか?

豚の顔をしたポルコ・ロッソ。そのおかげで紅の豚は、どこかファンタジー作品のような印象がありますが、本作は実在のイタリア・アドリア海を舞台にした物語です。舞台となった1920年頃のイタリアとはどんな国だったのでしょうか。

アドリア海は、イタリアのブーツの形をした内側の海のことです。イタリアの対岸には、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルベニアといった国々が並びます。今では複数の国が並んでいますが、第一次世界大戦時は、オーストリア=ハンガリー帝国という一つの国家でした。

作中でポルコが回想する過去の戦いが、まさに第一次世界大戦で勃発したイタリアとオーストリア=ハンガリー帝国との戦いなのです。この戦争でポルコは多くの仲間を失います。そして戦いの末、第一次世界大戦は終わり、オーストリア=ハンガリー帝国はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人王国となり、後のユーゴスラビアとなります。

ご存知の通り、その後は第二次世界大戦に突入していきます。イタリアとしてはポルコに再び国のために戦って欲しいわけですが、ポルコは戦争にもうこりごりだと、加担することをやめて賞金稼ぎして働いているという背景が存在します。

登場人物たちの国家との不思議な距離感とは?

紅の豚』が描いているのは第一次世界大戦と第二次世界大戦をつなぐ時代の物語ということもあり、物語の随所に戦火の臭いがする作品ですが、不思議と戦争映画には見えないのは、登場人物の多くが戦争に対して興味を示していなかったり、個人的な欲求のために行動を起こしていたり、そして笑顔に溢れているシーンが描かれているからと言えるかもしれません。

物語のクライマックスとなる戦いも、戦争ではなくフィオと大金を賭けた決闘となっており、国家同士の戦いに比べたらなんとも個人的と言える戦いです。そんな戦いだからこそ、すごく身近で親しみが感じられますし、どこか反戦の意図が汲まれているようにも感じます。

よく見ると、ポルコの飛行艇にはイタリアの国旗である緑と白と赤のカラーリングが施されています。しかし、これは彼が元々イタリア側の人間であったからではなく、「綺麗だからつけただけ」であったことが監督の宮崎駿の口から語られています。

ホテル・アドリアーノのジーナもポルコ側の人間のようですが、実はユーゴスラビア側の人間。そもそも彼女の船にはアルゼンチンらしきカラーリングの旗が掲げられています。これは、ジーナがアルゼンチン系の人間だからという秘密があります。

登場人物は戦争に背くような生き方をしているものの、出身国が名残のように示されている所に、国家という縛りからは完全には逃れられない宿命が感じられます。

映画の随所に描かれる“持ちつ持たれつ”とは?

紅の豚』に登場する人物たちが、戦争と距離をおいてどんな生き方をしているのか。それが分かるキーワードが劇中にも登場する“持ちつ持たれつ”です。

劇中でこの言葉が登場するのは、フィオを連れて街でガソリンを購入するシーン。ガソリンがイタリアの3倍の値段であることにフィオが不満を漏らすシーンで、ポルコは「ぼってるんじゃねぇ、持ちつ持たれつなんだよ。」とたしなめます。

言葉にはされませんが、その他の多くのシーンにもこの“持ちつ持たれつ”といった間柄が描かれます。冒頭で客船の襲撃を行なったマンマユート団に対し、ポルコは強奪した金品の半分をマンマユート団に返します。これは彼の優しさだとも思えますが、結果的に賞金稼ぎとして彼にも利益が生まれることを考えると、決して一方的な厚意ではないでしょう。

時には争いもするが、相手を奪い尽くさない。その関係性に彼らの美学が感じられます

紅の豚』が描く女性の姿は時代の先駆け?

紅の豚』で描かれる“共存”の姿は他にもあります。それは女性の活躍です。

作中では、ピッコロ社の飛行機の整備に女性の活躍が描かれます。その他にもフィオ、そしてジーナと、男相手に上手な態度を見せるシーンが度々登場します。一見、この時代の女性の強さを感じさせる映画になっていますが、時代としては今よりも決して女性の権利は強い時代ではありませんでした。その証拠に、フィオを飛行機に乗せて居ることに対し、マンマユート団は驚きを見せますし、ピッコロ社自体も食事のシーンでは女性が整備士の仕事をすることに対して懺悔するシーンがあり、この映画で描かれる女性たちがどれだけ時代にそぐわない人物だったかが現れています。

2010年代に入り、Metoo運動が行われるようになった今を思うと、1990年代初期の映画で早くも女性の活躍を描いている『紅の豚』には、時代の先駆けを感じます。

作中ほど女性の自由度は制限されていない世の中にはなったかもしれませんが、まだまだ世の中には、実現できていなかったり、決着の付いていない“共存”が多数あります。少しでもそれを改善していくことができるようにしたいと、『紅の豚』を観ると、改めて考えさせられます。

ポルコが豚の顔になったその理由とは?

最後にこの映画を観た人の多くが気になるであろう「ポルコが豚の姿になった理由」について言及しておこうと思います。

上映当時から「なぜ豚になってしまったのか」「最後には人間に戻れたのか」といった問いかけは、宮崎駿に対して何度も向けられていたのですが、はっきりとそこに理屈のある回答はなく、どちらかというそういった問いかけこそ野暮であるかのような態度で、煙に巻くような回答をしていました。そこには、宮崎駿自身がポルコが豚になった理由を単純化したくない気持ちが隠れているようにも思います。

ただ、ポルコが豚になったことに対して、一切言及がなかったわけではありません。公開当時の『紅の豚』のパンフレットに書かれている宮崎駿のインタビューでは、ポルコが豚であることに対していくつか言及がされています。

忠義的な犬でも、自由奔放な猫でもない、ポルコのキャラクターを表す動物として豚を選んでいること。また、戦争に対して、どっちにも与しないということを“豚になる“と表現していること、などからポルコが豚であることは、作品のスタンスのようなものを表現していることが分かります。

そしてもう一つ重要なのは、すでにパンフレットの前書きの時点で、誰がどういった理由でポルコを豚にしたのかが明文化されているのです。

迫り来る新たな戦争を前に再び国家の英雄になることを拒み、自分で自分に魔法をかけてブタになってしまいます。

そう、ポルコは自分に対して魔法をかけて豚になってしまっているのです。そう言われてみれば、人間の面倒くさい事柄に対して、自分は豚だから関係ないと他人事めいたりと、決してポルコ自身は豚であることを嫌がってもいなければ、治す気もないような態度に表れています。その浮世離れした態度こそ、ポルコが自分自身にかけた豚になるという呪いなのでしょう。

その態度はポルコの魅力の一つにも見えますし、どこかジーナに対する逃げのようにも見えます。しかし、ポルコが自ら豚になることを選んでいる以上、その理由を解こうとすること自体が野暮な行動なのかもしれません。その問いを投げかけないことこそ、『紅の豚』における“カッコイイ“なのかもしれませんね。

(C)1992 Studio Ghibli・NN

※2020年9月18日時点の情報です。

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