ポップコーンの変わりに“アランチーニ”はいかが? 『ニュー・シネマ・パラダイス』【映画を観ながら食べたいレシピ】

映画は人生のおいしいレシピ

さわのめぐみ

ニュー・シネマ・パラダイス

ニューシネマパラダイス

映画に魅せられた少年が青年へと成長していく物語。
恋をして、傷ついて、生まれ育った街を去る。第二次世界大戦後のシチリア。とても貧しい生活を表現しながらも人々に愛され続けた映画館はまさに“パラダイス”と言えます。
少年期、青年期、そして大人になった主人公・トトのように、映画館も少しずつ表情を変えていくシーンにこころ惹かれます。そんな田舎町、風景は変われど昔から愛され続けているシチリアの郷土料理をご紹介いたします。

パラダイス座特製ライスコロッケ

ニューシネマパラダイス

【材料】8個分
お米 1合
サルフランパウダー(なくても○)2振り

玉ねぎ 1/4個
赤パプリカ 1/4個
スライスベーコン 4枚
オリーブオイル 大さじ1
粉チーズ 大さじ1
塩コショウ 少々

1口チーズ 8個

小麦粉 1/2カップ
水 適量

パン粉 1カップ

揚げ油 適量

レモン 1個(8等分にカット)
ローズマリー 飾り

【作り方】
1 お米を炊きます。サフランパウダーがあれば加え、炊飯器で普段通り炊きましょう。
2 玉ねぎ、赤パプリカ、スライスベーコンは細かくみじん切りにしてオリーブオイルで玉ねぎがしんなりするまで炒めます。
3 ご飯が炊けたらボールに移し2と粉チーズを加えて塩コショウで味を整えます。
4 3を8等分に分け、1つずつ手に取りチーズをのせて丸めていきます。その際にチーズがはみ出ないように包みましょう。すべて包み終わったら冷まします。
5 小麦粉と水でどろっとした衣を作り、しっかり冷ました4にまんべんなく付け、パン粉をまぶします。
6 180℃に熱した揚げ油できつね色になるまで揚げて出来上がりです。
7 レモンをたっぷりかけて食べましょう。

レシピの経緯

シチリアの郷土料理の「アランチーニ」。
アランチーニはイタリア語で“小さいオレンジ”の意味で、形がオレンジに似ていることに由来します。
シチリアのバールや総菜屋には必ず並んでいる定番の郷土料理。今でこそ映画のお供はポップコーンになっていますが、シチリアの映画館ではきっとアランチーニが楽しめるはずです。

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  • PEARL
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    イタリアのシチリアを舞台に、少年と映写技師が映画を通して心を通わせていく様を描いたヒューマンドラマ。 どこか懐かしく、とても切ない、あふれる映画愛とともに描かれた名作です。
  • ひじき
    4.5
    映画の持つ面白さ、美しさを再認識させてくれる映画。 子供たちの瞳はとても純粋で知的好奇心旺盛、純粋無垢というのが相応しい。熱狂的なほどに映画を楽しそうに見ているのが微笑ましくこちらまで笑顔になる。 幼少期のサルヴァトーレを演じたサルヴァトーレ・カシオは見ていた感じ素人っぽかったが、だからこそ映画を笑い楽しむ子供らしい姿が際立っていた。
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    母性へと回帰する男たち ジュゼッペ・トルナトーレ 1/3 ジュゼッペ・トルナトーレの作風の主たるものとして、母性との距離がロマンティシズムのうちに語られることが挙げられるはずですが、本作についても同様のことが言えると同時に、それとは別の要素もたいへん濃密に表れているように思います。 僕が映画を観ながら常々思っていることのうちの1つに、作品の「中で語られた」ものと「外で語られた」ものとの関係があります。それはいわゆるメタ視点に立ったコンセプトのようなものではなく、「中で語られた」ものがいつしか内殻を破って「外で語られた」ものとなり「外で語られた」ものがその浸透圧によって「中で語られた」ものとなるようなイメージです。 心が深く揺さぶられる作品は、そのように「中と外の往来」で出来ていることが多いように思います。そして『ニュー・シネマ・パラダイス』が作品として持っている魅力もまた、そうした「中と外の往来」によるもののように思います。 * 本作が内的に描き出しているのは、トトにとってはアルフレードやエレナとの愛を喪失することでしか、愛のもつほんとうの意味と価値を手に入れることができなかったという背反性だろうと思います。彼がもしも旅立つことなく愛のうちに故郷にとどまっていたなら、それなりの幸福とそれなりの不幸せのうちに生きただろうと思います。けれど愛のもつほんとうの姿を見ることはなかったかもしれない。 彼を大いなる母性で包み込んだのがアルフレードならば、彼を厳しい父性で突き放したのもアルフレードだった。その背反性は僕たちがそれぞれにもつ生の実感に強く訴えるものだろうと思います。 父性としてトトを突き放したアルフレードが、ひそやかに遺していたフィルムの断片をつなぎ合わせたキスシーンのラッシュ。そのラストで僕たちが観たのは、愛のシーンを断片のように寸断したのも愛だったならば、それをつなぎ合わせたのもまた愛だったことであり、そのとき内的なストーリーのフラグメント(断片)が一気に集約され、父性と母性が溶け合わされるように昇華していった軌跡だろうと思います。 またそうした母性と父性の織りなす綾(あや)として、映画の「中で語られた」愛の軌跡に身を委ねるうちに、いつしか内殻を破るように「外で語られた」ものも聞こえてくることになります。 * それは映画を撮るということそれ自身が、喪失する宿命を内在的に抱えた愛について語ることに等しいという声です。製作時に29歳だった監督のジュゼッペ・トルナトーレは、意識的にであれ無意識的にであれそんなふうに思っていたように感じられます。そのことが「中で語られた」映画の内殻を破るようにして「外で語られた」ものとして聞こえてくる。 暗喩のもつ力の本質は、個人のもつ深い領域とその他大勢がそれぞれにもつ深い領域とをつなぐ橋渡しにこそありますが、それは内的な垂直関係を水平関係に移しかえていくものと言って良いように思います。いっぽう「中と外の往来」は純粋な垂直関係に近く、個人と個人の信じる何かとをつないでいます。それはほとんど宗教的な信仰に近い。 ですからこの映画に強く揺さぶられた心はおそらく「中で語られた」語りの素晴らしさの他にも、内殻を破るように「外で語られた」信仰告白のようなものも併せて見聞きしているように僕には思えます。その信仰告白が浸透圧によって再び作品内に還っていくように「中で語られた」ものを強めてもいる。 つまりトトがキスシーンのラッシュに観たものが、父性として彼を引き裂いた愛と、大いなる母性としての愛が溶け合っていく姿だったように、ジュゼッペ・トルナトーレにとって映画を撮るということは、様々に引き裂かれることになる愛の悲劇を、ロマンティシズムとしての愛のうちに溶け合わせていくことを意味しているはずです。彼にとって映画を撮ることは、そのように物語ることへの信仰に近い。またそうした信仰があるからこそ、トトがつなぎ合わせたキスシーンのラッシュに深い力が宿ることになった。 どれほど才能があるとはいえ、20代で撮ったとは思えないような深い力が本作に宿っているのにはそうした理由があるのだろうと思います。またいっぽうでこの信仰の瑞々しさは20代でなければきっと表せない。奇跡のような1本を観るような思いがいつもします。
ニュー・シネマ・パラダイス
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