2018年10月、VRゲームの中の断頭台(ギロチン)で斬首された人の身体に異変が起きたというニュースが話題になりました。
VR上での体験は紛れもなく仮想のものですが、その仮想体験が現実の身体や心に及ぼす影響について考える上で、とても興味深い事例です。
この斬首体験の例では、本当に死に近い感覚を覚えたようですから、虚構はすでに現実と同じくらいの強度を持っていると考えてもいいのかもしれません。
現代において、現実と虚構はハッキリと区分できるようなものではなく、等価のものとして混在している。そんな世界を先取りして描いていたのが今敏監督です。
今敏監督の作品には一貫して「現実を生きることは、虚構を生きることに他ならない」というテーマが込められています。遺作となった映画『パプリカ』はそのテーマをわかりやすい形で示した作品です。
『パプリカ』のキャッチコピーは「夢が犯されていく―」。本作で描かれるのは、人が眠っている間に見る「夢」です。
夢とは何かについての鋭い洞察が満載で、現実と虚構が等価であることを描き続けた今敏監督だからこそ実現した、多くの示唆に富む作品と言えるでしょう。
映画『パプリカ』あらすじ
精神医療総合研究所に勤める主人公の千葉敦子は、「DCミニ」という他人の夢を共有できるデバイスを使って患者の治療を行うサイコ・セラピスト。
彼女は夢の世界では別人格の「パプリカ」を名乗り、神経症などに悩む人の夢に入り込んで、その原因を解決している。
ある日、研究所からDCミニが盗まれたことをきっかけに、おかしな言動をする者が現れたり、現実世界が奇妙なイメージに侵食される現象が発生。
敦子(=パプリカ)は粉川警部の強力を得て、夢と現実が入り乱れた世界の中で、DCミニを盗んだ犯人を追いかける。
原作は「時をかける少女」などで知られる作家・筒井康隆による同名のSF小説。
※以下、映画『パプリカ』のネタバレを含みます
フロイトとユングが説く2つの無意識
映画『パプリカ』を読み解く前に知っておきたい、夢と無意識の研究について触れておこう。
夢は個人の願望や欲望の表出である[フロイト]
夢といえば、2人の世界的精神科医がいます。ひとりは『夢判断』を書いたフロイトです。夢については、古代からさまざまな言及がなされてきましたが、フロイトは夢を体系的な学問として解き明かそうと試みました。
フロイトは著書『夢判断』で、「夢とは個人の記憶から生まれ、無意識に選択される、願望や欲望の表出である」としました。それまでの夢や意識に関する定説に異を唱え、人間の心には無意識の領域があり、そこにこそ人間の本質があるとフロイトは発表したのです。
夢には人類共通のイメージが眠っている[ユング]
そして、もう一人の重要な存在がユングです。彼はフロイトの『夢判断』における無意識のあり方について反論をしました。
フロイトが「無意識とは個人の記憶や体験を源泉にした、あくまで個人的なものである」と述べたのに対し、ユングは「人が無意識状態で見る夢には、個人の記憶・体験に拠らないイメージも存在している。無意識は個人の記憶だけで作られるものではない」と主張したのです。
ユングは夢の中には古代神話などにも登場するイメージ(元型)が現れることを発見しました。ユングは「無意識には、個人の記憶ではない人類共通の普遍的なイメージが眠っており、それは人類が脈々と受け継いできたものだ」と考えたのです。これを「集合的無意識」と言います。
例えるなら、ふっくらした丸みを帯びたものに母性を感じたり、光輝く太陽に神的なイメージを得る感覚といえば、わかりやすいでしょうか。
それに対して、フロイトの個人の記憶からなる無意識は「個人的無意識」と呼ばれます。
映画『パプリカ』は、このフロイトとユングの夢に関する議論に根づいた作品です。いくつかのアイデアやイメージを、2人の提唱した夢の解釈から作り上げています。
サーカスシーンは集合的無意識の具現化
本作は夢の中のサーカスのシーンから幕を開けます。その理由について、今敏監督は作品の公式ブログで、フロイトやユングの理論をふまえてユニークな夢解釈を展開したD・フォンタナの著書『夢の世界』を引用し、以下のように説明しています。
「夢の世界とは劇場のようなものである。その舞台において、魔法のような変容が起こり、イメージがイマジネーションの深淵から湧き上がり、人生のドラマが繰り広げられるのだ」(P134)
と(D・フォンタナの著書『夢の世界』に※)書かれているように、夢を題材とする映画に相応しいファーストシーンだと考えたからです。というか、この本を読んでいて思いついたシーンだったかもしれません(笑)
さらに引用を続けますと、
「劇場やサーカスが(夢の)舞台として用いられた場合、その夢は「大きな夢」を思わせるような独特の鮮明さと活気で満ちあふれる」
とありまして、ここに言われる「大きな夢」とは「集合的無意識から発生する夢」のことで、
「ユングの言う「人類の巨大な歴史的宝庫」、すなわち神話的世界の入口」(同/P30)
である、と。
『パプリカ』の映画化にあたってこんな文章に出会えば、当然採用したくなるのが人情というものでしょう。引用元:『パプリカ』7つの手引き/今 敏(映画『パプリカ』公式ブログ)
※ 編集部補足
みんなで1つのショーを囲んで観ている、というのは確かに共通体験(集合無意識的な体験)の具現化としてわかりやすいですね。
ちなみに、このサーカスのシーンは『地上最大のショウ』(1952)という映画からの引用です。
このサーカスシーンに続いて描かれるのが、粉川警部がこれまでに観た映画のワンシーンの連続です。『ターザン』や『ローマの休日』といった映画のワンシーンを、粉川警部とパプリカがそれぞれの映画の役に扮して再現します。
本作はタイトルが示す通り、ヒロインのパプリカ(千葉敦子)が主人公の物語ではありますが、物語の中で克服すべきトラウマを明確に描かれているのは、粉川刑事の方です。
本作の物語は、パプリカの活躍によってDCミニを盗んだ犯人を追い詰めるというものですが、同時に粉川刑事のトラウマを克服していく物語でもあります。
むしろトラウマの正体に明確な言及がある分、粉川の方がテーマを重く背負っていると言っていいかもしれません。
夢とトラウマ、もうひとりの自分
粉川刑事は学生時代、映画監督になる夢を持っていました。親友と自主映画制作に精を出す青春をおくった粉川ですが、親友との才能の差を感じてその夢を諦めてしまいます。
「映画は嫌いだ」とうそぶく粉川ですが、実は無意識で夢に見るほど本当は映画が好きなのです。
粉川はパプリカに自身の夢を覗いてもらってトラウマの治療に取り組んでいます。彼のトラウマは、最近起きた殺人事件のシーンとなって現れます。しかし、射殺された男も逃げる犯人も粉川の顔をしており、自分が自分を殺しているというなんとも怪しげな状態になっているのです。
粉川自身は、未解決のままのその事件が尾を引いてトラウマになっていると一度は考えますが、本当のトラウマはそれではなかったことが後に明かされます。
そう、粉川の本当のトラウマは、映画監督の夢を諦めたことに他なりません。そしてそのトラウマを克服する過程を、映画館のスクリーンを突き破るシーンで具現化しています。
粉川は映画のスクリーン越しにパプリカが小山内という男に襲われそうな場面を目撃します。パプリカを救うために粉川はそのスクリーンを物理的に突き破って、スクリーンの向こう側のパプリカを救い出します。そして追っ手から逃げる過程はまたしても映画のワンシーンの連続。その最後にはまたも例のトラウマシーンが蘇ります。
このとき、いつもの粉川は犯人を追わずに止まってしまっていました。夢の中で止まる、そのことは映画監督になる夢を追いかけることができなかった粉川自身を象徴しています。夢を中途半端な形で放り出したことに、粉川は苦しんでいたのです。
いつもは逃していた犯人を仕留めると、粉川は自分の無意識の中にいるもうひとりの自分に気づきます。もうひとりの自分は、かつて一緒に映画制作を夢見た親友の姿をしていました。
自分の無意識の中にいる他者をユングは「影」と呼びました。「影」とは、あり得たかもしれないもうひとりの自分。つまり、選ぶことのなかったもうひとつの人生(粉川でいう映画監督)です。その影となった自分と向き合うことが、本当の自分を知ることにつながるとユングは説きます。
粉川にとって親友の存在とは、夢を諦めなかったもうひとりの自分に他なりません。それが深層心理では彼の「影」となって表れているのです。ようやく影と向き合えたことで、粉川はトラウマを克服しました。
そして、全ての事件が解決された後、粉川は親友との約束を違った形で果たしていた自分を発見します。学生時代に自主制作した映画の中で粉川は刑事を演じていたのですが、そんな彼が実際に刑事になっているわけです。
そのことについて親友は「嘘から出た真じゃないか、大事にしろよ」と粉川に語りかけます。
これに対して粉川は「ああ、嘘も真もな」と返します。
このセリフは映画全体のテーマを如実に表していると言えます。嘘(虚構、夢)も真(現実)も等しく大事にしなければならない。そのことに気づいた粉川はトラウマを克服したのです。
「なにが夢で、なにが現実か」実は誰にもわからない
本作には蝶のイメージが頻出します。夢と蝶と言えば、「胡蝶の夢」という説話をご存知でしょうか。中国の道教の始祖である荘子が見たという夢の話です。
荘子はある時、自分が蝶になる夢を見ました。しかし、人間である自分が蝶になった夢を見たのか、それともいま蝶の自分が人間になった夢を見ているのか、何が夢で何が現実なのかは誰にもわからない、という内容です。
どちらが本当の現実かは関係ない、どちらの自分も真実であり、どちらも肯定すれば良いのだとこの説話は語ります。これは『パプリカ』において、粉川が辿り着いた境地そのものです。
粉川は夢の中の自分と向き合うことで現実でも前向きに生きられるようになりました。それはまた、主人公の敦子(パプリカ)にも同じことが言えます。
敦子とパプリカが問答するシーン。敦子はパプリカに対して「あなたは私の分身でしょう」と言い放ちますが、パプリカは「あなたが私の分身という発想はないわけ?」と返答します。
そのセリフをきっかけに、敦子もまた自分の中の他者であるパプリカと向き合い、自分の気持ち(無意識)に気づき、時田との関係を前進させることができたのです。
夢の中の自分を受け入れることで、現実でも前を向くことができる。つまり、それは虚構を上手く生きることこそ、現実を上手く生きること。
言い換えれば、虚構の中で死ぬことは、現実の死をも意味し得る。冒頭で紹介したVRゲーム内斬首のニュースについてあてはまることでもあります。
『パプリカ』のラストで、粉川はひとりで映画館に入っていきます。歴代の今敏監督の作品の看板が並ぶ中で、粉川がチケットを求めた映画のタイトルは『夢見る子供たち』でした。
今敏監督が亡くなり、幻の企画となった『夢みる機械』にも似たタイトルです。もし監督が今でもご存命なら、一体どんな「夢」を見せてくれたのだろうか。そう思わずにはいられません。
Photo credit: Pacific Northwest National Laboratory – PNNL on Foter.com / CC BY-NC-SA