どうも。侍功夫です。
映画についての連載をこのフィルマガで始めるのだが…… さて、困ったぞ……
映画は総合芸術である。まず絵があり、動きがあり、登場する人物が喋り、物語を紡ぎ、その背景には音楽が流れる。それぞれ、複合的に支えあって製作者の意図する表現を作り出していく…… とか、難しいことを書き始めてしまったが、実感としてはごく単純なものだ。映画の中で楽しい場面では人々はニコニコと笑い、楽しい音楽が流れている。
しかし、それら映画表現の中にも見過ごしていたり、よく理解できないままの事柄もある。そんな事柄をすこしづつ解説していこうという連載にしてみようと思ったワケだが……
しかし、私だって別に映画博士では無いし、まだまだ解らないことだらけで1つ知れば2つ謎が現れるようなていたらくで、誰かに何かを教えてあげよう! といった大層な立場では無い。そこで、私が知っている限りのことを書き出しながら、ネズミ講式に膨れ上がる映画の謎に溺れていこうというのが、必然的な趣旨になってしまった。
なので題して「知れば知るほど解らなくなる映画の話」である。
映画の中に降る雨
映画の中で雨が降る場面。あれはロケ撮影をした日の天気が悪かったワケでは無い。
日本の低予算映画ではそういう場合もあるだろうが、潤滑な予算で撮影している大きな規模の映画では、わざわざ放水車を用意して人工的な雨まで降らせる。そこには雨を降らせることで効果的に表現できる感情があるからだ。その感情を紐解いていこう。
悲しい雨
お葬式の場面でどしゃ降りの雨の中濡れるがままに故人を思う登場人物たち。というのは、ある種のクリシェ(常套表現)と言えるだろう。
『ベイマックス』でのお兄さんのお葬式場面。『ウォッチメン』コメディアンの葬式に集まるヒーロー仲間。『ジョン・ウィック』や『特攻野郎AチームTHE MOVIE』『ヘルボーイ』、古いところで『ドラゴン 怒りの鉄拳』…… って、思いつくのがこんな映画ばかりだが、まぁ、映画の中のお葬式にはよく雨が降る。
これらの場面での雨は、顔に当たった雨粒がしたたる様子からも解る通り、涙を象徴している。悲しさを俳優の泣く演技で表現するのは野暮ったいし、雨の日なら昼でも暗い画面に出来るので「故人への悲しみ」を表現できる。という意味を持っているのだ。
「じゃあ『雨に唄えば』はどうなんだヤーイ!」と思うかもしれないが、あれは「雨の中でも唄い踊りだしたくなるほど嬉しい気持ち」の表現であり「雨の悲しさ」があって成り立つ、極めて映画的な表現だ。
洗い流す雨
中学校を舞台にした映画ながら中学生は観れない「R-15」指定で、しかし大ヒットを記録したことで「内容良ければレイティング高くてもヒットする」という当たり前の風潮を邦画界に吹き込んだのが中島哲也監督の『告白』である。
この作品ではよく雨が降っていたが、特に象徴的なのは映画が始まってすぐ、松たか子演じる教師森口悠子が「告白」をする場面で教室の外で降る雨だ。
死んだ内縁の夫との間の子供(まだちっちゃい芦田愛菜)が事故死する。しかし、実は殺人で、その犯人を見つけたが公にしたところで未成年の犯人は少年法に守られてどうにもならない。ならば、ここで私自身が手を下し、公にはしないで「水に流して」あげる。という場面だ。この場面が優れているのは、すぐ後。森口悠子の「告白」がされるホームルームが終わった後にある。
関係の無い生徒たちは雨の上がった放課後、ウワサ話をしながら三々五々帰路につく。雨で出来た水溜りにふざけて飛び込み、水しぶきをあげる。この水しぶきが茶色く濁った汚い水なのだ。
つまり「水に流した」わけじゃなく、「チャラけたお前らを泥土につっこんでやる!」という宣戦布告の意味が複合的に立ち上がってくるのだ。
「水に流す」というのは日本語の慣用句だが、英語圏の映画でも「水に流す」意味の雨は降る。最近だと『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』で降る雨が特に象徴的だろう。現在公開中なので、上記のことを踏まえて鑑賞すれば「なるほどね!」となることと思う。
技術的な雨
『バック・トゥ・ザ・フューチャー パート2』ジェニファー、マーティ、ドクの3人は空飛ぶデロリアンに乗り、雨の降る未来のヒルバレーに降り立つ。
『ブレードランナー』逃げたレプリカントを捕まえるために召集されたデッカードが空飛ぶパトカーに乗って未来のロサンゼルスに飛んでいく。
この2つの映画に降る雨は、同じ意味で使われている。2つとも、車を吊るすワイヤーを隠すために雨が降っているのだ。CGが今ほど発達していない80年代の映画ではこんな理由でも雨が降るのだ。
独自な雨
『マトリックス レボリューションズ』ネオとエージェント・スミス最後の対決場面に降る雨。これはシリーズを通して観ていればある独自な、特徴的光景と重なるだろう。
『マトリックス』世界のプログラム言語はカタカナの縦書きで上から下へ「雨」のように落ちてくる。最後の仮想現実での2人の戦いはデータ化された2つの意識が崩壊しかけたプログラムの「雨」の中で戦うという意味で、他の映画で降る雨とは全く別の意味を持っている。
ハッピーな雨
さて。ここからが映画表現の不思議なところ。映画の中で降る雨というのはおおむね「悲しさ」や「つらい過去」といったネガティブな意味をはらんでいるものだが、全く逆の意味でも雨が降る。
インド映画である。
『マダム・イン・ニューヨーク』のシュリデヴィさんと『スラムドッグ$ミリオネア』でインドのクイズ・ミリオネアで、みのもんた的な役を演じたアニル・カプール共演の『ミスター・インディア』から1曲。この映画の悪役は『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のモララムことアムリーシュ・プリー。
このように、ヒーローとヒロインの恋が成就し、晴れやかな気持ちのミュージカルが始まると「アナタといると心地良いのよ~♪」と雨が降り出したりするのだ。
これは、もちろんインドの気候に起因している。真夏は50度を越え、アスファルトも溶けてしまうような猛暑のインドでは、雨は正に「恵みの雨」となる。人々を少し冷やしてくれる「気分の良いもの」の象徴になるのだ。
……ということで、「雨」ひとつとってみても、これだけの意味や違いが出てくる映画表現。少しでも解った気分になっただろうか?
知れば知るほどわっかんね!