映画『花束みたいな恋をした』の魅力を徹底考察!“花束”とは何だったのか?結末から読み解く現代社会の構造とは?【ネタバレあり】

2021年の話題作『花束みたいな恋をした』あらすじや見どころをまとめて解説!

日本ドラマ界を代表する脚本家である坂元裕二が初めてオリジナルの映画脚本を書き下ろしたことで、公開前から大きな期待感を持って迎えられた映画『花束みたいな恋をした』。めまぐるしいポップカルチャーの引用と普遍的な若者の恋愛模様に、日本社会の構図を巧みに混ぜ合わせながら展開した坂元らしい世界観は、感度が高い若者だけでなく、数多くの観客を魅了して大ヒットを記録した。

物語と自身の恋愛観を重ね合わせながら感想を語りたくなる、いわゆる「自分語り映画」である本作は、映画の見方において「共感」が何よりも重要視されるコンテンツ市場の需要を正確に捉えた。本記事では、既に「2021年公開のベスト映画」との呼び声も高い本作の魅力をネタバレありで紹介していきたいと思います。

映画『花束みたいな恋をした』(2021)

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東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)。好きな音楽や映画がほとんど同じで、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店してもスマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが……。

※以下の部分はネタバレを含みます。

ポップカルチャー引用と「未熟さ」

まず多くの人の心に残ったであろうポップカルチャーの引用の多さ。分析してみると、二人の好きな小説家が現代作家に規定されていることや、絹が天竺鼠の読み方を間違えたこと(そもそも二人ともライブにいく予定を忘れていた)、麦が「ワンオクを聴くか?」という質問に対して「聴けます」と無意識に蔑んだ返しをするなど「みんなが知らないことを知っている自分」という若者特有の自意識とそれに伴う「未熟さ」を巧みに表現していました。

ここに引っかかった人も多く、「こいつらは本当にポップカルチャーが好きじゃない」と批判をする発言も多くありました。しかし坂元裕二がこういった若者を批判するために本作の脚本を描きたかったのでしょうか。むしろポップカルチャーの引用はあくまでもフックで、真意は成熟するまでの未熟さを描き切った「青春映画」に仕上げたかったからではないかと感じます。

「花束」とは何だったのか?

つまり「花束」とは狭義の恋愛を指すのではなく、「未熟さ」そのものを指していると言えます。物語の後半、彼らは自身の職を見つけて、社会に所属することで「成熟」していきます。「成熟」すれば、自ずと責任感を持ち、自らの意思で生きていく必要があります。結果、麦は中性的な感じから、男性社会の営業マンとして「成熟」し、そこには元来あった安定志向が顕在化します。対照的に絹は男社会的な職場から抜け出し、やりたいことをやるために「成熟」するために元来の好奇心を生かした仕事に就きます。

そのどちらが正解で不正解か、ということではなく各々のやり方で「成熟」していく過程を丁寧に描いたことが、ポップカルチャーファンだけでなく、ライトな層からも高評価を獲得した要因だと考えられます。よってポップカルチャーを軸にした批評は一種の思い込みで、映画館に行く主要層を最大化した時に、「音楽や小説が好きだから」くらいの意味合いしか引用にはないのかもしれません。本作は日本社会を生きる若者の誰しもが通るであろう通過儀礼を描いているからです。

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「自分語り」映画の強度

2021年3月に26年の時を経て完結した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。キャッチコピーである「さらば、全てのエヴァンゲリオン」を体現するかのように、清々しいまでに過去の謎を回収して、堂々の結末を迎えました。しかし実際には賛否両論で、特に最初のアニメ版/旧劇をリアルタイムで体験した世代は「こんなのエヴァじゃない」と非難を超えて、罵詈雑言と言うほどの意見が噴出しました。しかし彼らは作品を批評をしているようで、自意識を論理化した厄介な感情論であるとの声も多くありました。それは自意識を主題にしたコンテンツ、いわゆる「自分語り」映画との親和性があり、本作『花束みたいな恋をした』もまたその強度に支えられていると言えます。

また本作の感想と共に多く挙げられた作品が、2019年に公開した『愛がなんだ』でした。この作品では、岸井ゆきの演じるテルコは客観的に見れば異常とも取れるくらいの執着心を持って、成田凌演じるマモちゃんと関わる恋愛映画です。恋愛を超えてアイデンティティとは何か?までを描き切ったことで、若者を中心にスマッシュヒットを記録しました。そして各々の恋愛観によって評価が全く異なったというのは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』や本作との共通点と言えそうです。

ここで言いたいのは自分語りが悪いことというのではなく、「共感」が鑑賞において一番強い強度を持つということです。つまり「自分語り」できる映画がもっとも求められていると言えます。『愛がなんだ』と本作が異なるのは、不倫や他者とのつながりなど人間関係における煩わしさをなるべく抑えたことで、麦と絹の関係性が自然に変化したように見せた点ではないでしょうか。その変化の正体は「社会」そのもので、「成熟」の過程で働く場所や関わる人間関係が本当は大きく変わっているはずなのに、あえてそれを前面に出さなかったことで、本作がある種の器として多くの人に「自分語り」を促せたのかもしれません。

就職活動からみる現代社会

最後に本作のターニングポイントであった「就職活動」を見てみます。麦と絹の関係性が徐々に変わっていったのが、麦の就職活動でした。将来イラストレーターを夢見ていた麦は少しながらイラストの仕事を得たものの、給与が徐々に減らされて、最終的にはフリー素材でいいやという理由でクビを言い渡されます。フリーランスとして情報発信しやすくなった分、「代わりはいくらでもいる」という考えに陥って、その競争に勝つためには値段を下げるしかないという後期資本主義のグロテスクさが滲む印象的なシーンでした。

そんな中で、夢を諦めてモラトリアムを終わらせるために就職活動を行う麦でしたが、最終的に夕方に退勤できるという理由で営業会社へと就職します。しかし現実はうまくいかず……という展開はぜひ本編を確認してほしいです。

ここで参照したいのは坂元裕二が脚本協力を行った『就職戦線異状なし』(1991)です。バブル期のマスコミ就活を描いたこの作品では、織田裕二が演じた就活生・大原のキャラクター造形がまず印象に残ります。夜はクラブに繰り出し、講義もまともに受けずに、大人からは「社会をなめている」と言われ喧嘩をふっかけられる。まさに斜に構えた青年らしい青年というイメージがぴったりな彼が就職活動を経て、最終的に自己実現をするというのがこの作品の話の筋です。ラスト、彼は見事内定を得ますが、過去に断念した野球への想いを募らせてそれを辞退します。また同時に、恋愛対象ではないと考えていた女友達への愛に気がつきます。

まとめると、いかにもトレンドドラマ黄金期らしい作品ですが、売り手市場だった過去の日本社会を理解する上で、本作と比較するのは非常に興味深いです。というのもラストで、大原は真のなりたい自分に気がつくのですが、対照的に麦は真の自分というものを模索しようとしません(というよりなれる職業に就いた)。ここにバブル崩壊後、買い手市場になった日本社会の現実志向な側面が垣間みえていると思われます。夢を追いかける上昇志向ではなく、今の生活を守り通す現状維持志向の対比が、若者のマジョリティのイメージとして鮮烈に残るのと同時に、大原と麦の比較はそのまま、麦と絹の対比へと結びつきます。

ちなみに『就職戦線異状なし』のキャッチコピーは「なりたいものじゃなくて、なれるものを捜し始めたら もうオトナなんだよ……」で、本作は全編を通して「なれるもの」を描いていました。ただそれは決して悪いものではなく、だからこその幸せや喜びもしっかり描かれていて、坂元裕二の温かさを感じました。本作を鑑賞した上で、他の坂元作品を観てみるのもオススメです。

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(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会

※2021年7月13日時点の情報です。

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