映画『バケモノの子』ラストはどうなる?「西遊記」との繋がりがある!?作品の魅力をネタバレありで徹底考察

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映画『バケモノの子』の魅力をネタバレありで徹底解説!「白いクジラ」示すものは何か?参考文献となった「悟浄出世」とは?

細田守監督の最大ヒット作としてもっとも高い興行収入をあげた映画が、2015年に公開された映画『バケモノの子』です。その数字は58.5億円(※日本映画製作者連盟発表)にまで及び、多くの人が劇場に足を運んだ映画となりました。

そんなバケモノの子にはこれまでの細田守監督作品にはない多くの魅力が存在します。その魅力に関して、すでに一度観たことのある人向けに、ネタバレありで改めてバケモノの子を振り返っていきます。

バケモノの子』(2015)のあらすじ

母親の死をきっかけに、親戚に引き取られそうになった少年、蓮は家を飛び出してしまう。渋谷の街中に迷い込んだ蓮は、補導されそうになったところを、偶然遭遇した熊のような顔をした大男の後を追い、不思議な世界に迷い込んでしまう。なんとそこはバケモノたちが暮らす、“渋天街”だったのだ。

渋天街で周りからは嫌われ者ながらも、身体能力の高さは評価される次期宗師の候補・熊徹に、半ば強引に弟子にされてしまった蓮は、“九太”という新しい名前をもらい、熊徹とともにバケモノの世界で暮らし修行を始める。

しかし、自分勝手でガサツな性格の熊徹の指導は、お世辞にも上手いとは言えなかった。結局、久太と熊徹は喧嘩ばかり。そんな中、現在の宗師の指示により、九太たちは各地の賢者たちに真の強さを聞く旅に出ることになるのだった。

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※以下、『バケモノの子』ネタバレを含みます。

白いクジラが示すもの

バケモノの子の作中には、多くの引用を見つけることができます。

中でも特に物語に大きく関わってくるのが“白いクジラ”について。冒頭では、まだ幼い九太の家に、「白クジラ」のタイトルの絵本があることが描かれており、その思い出もあってか、人間世界に帰ってきた九太が図書館で興味を惹かれる書籍も「白鯨」でした。この本をきっかけに、一郎彦はクライマックスに白いクジラの姿で九太に襲いかかります。

この本のモチーフは実際に存在している有名なハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」。片足を奪われしまったことから、巨大な白いクジラ“モビー・ディック”への復讐に執着する船長のエイハブの姿を、船乗りの主人公イシュメェルの視点で追う物語です。実際に本作をベースにした絵本なども刊行されています。

このモビー・ディックは自然であったり、神であったりと、絶大的な力を持つ存在の象徴として語られることが多いのですが、バケモノの子』では楓の台詞で“自分を映す鏡で、心の闇の象徴”として扱われています。

バケモノの子』と「西遊記」には繋がりがある?

もう一点、意外な作品がバケモノの子では、参考文献としてクレジットされています。

それが「山月記」で知られる中島敦が書いた「悟浄出世」という作品。この「悟浄出世」は、「西遊記」に登場する沙悟浄が主人公として書かれており、三蔵法師たちと出会う前に何をしていたのかが描かれています。

沙悟浄といえば河童のイメージを持つ人も多いでしょうが、それは日本で普及したアレンジで、原作では人型の姿になれる妖怪ではあるものの、河童ではありません。

「悟浄出世」では自分が手にかけた9人の僧侶の髑髏を首にかけた沙悟浄が、心を病んでしまっており、自身が住む河の底に住む賢人や医者、占星師たちに教えを乞うという物語です。多くの者のもとを訪ねたものの、沙悟浄の心は解消されることはなかったのですが、ある日、三蔵法師と共に西へ赴くように啓示を受けます。

「悟浄出世」の物語は、『バケモノの子』で九太や熊徹たちが各地の賢者に“強さ”を問う旅に出るパートに活かされています。「悟浄出世」に登場する賢者たちは河の中の生物がモチーフとなっていて、姿こそ『バケモノの子』は別のものにはなっていますが、幻術の大家や座禅を組み眠り続ける者、さらには我が子までも食べてしまう食欲旺盛な者など、賢者たちの特徴が引き継がれています。

思えば、熊徹の悪友である多々良は猿の顔をしており、百秋坊は豚の顔をしているのも「西遊記」の孫悟空と猪八戒を思わせます。こういったモチーフからも九太が沙悟浄の立ち位置にあることを暗示しています。心に闇を抱えた沙悟浄が、その身を救うために旅に出る姿もまさに九太に通じるものがあります。

ただし、九太が沙悟浄なら、熊徹が三蔵法師となるのか? といえば、そうではないのは本編を見ていれば分かる通り。互いに教え合う仲となった九太と熊徹を思うと、熊徹もまた沙悟浄であり、さらに言えば久太と熊徹は互いを教示を与える三蔵法師の立ち位置と言えます。

どこか西遊記を思わせながらも、沙悟浄と三蔵法師の不在感は、九太と熊徹の特殊な立ち位置からも必然とも言えるかもしれません。

熊徹が最後に転身した付喪神とは何か?

一郎彦との戦いで、その身を犠牲にしてまで戦おうとした九太。それを救うのは、宗師となり神様になる権利を獲得した熊徹でした。熊徹は付喪神となって大太刀に変わり、九太の心の剣となり、一郎彦を闇から救い出します。付喪神と聞いてもピンとこない人も居るかもしれませんが、付喪神とは本来、100年間使われ続けた道具に魂が宿ったものとされています

付喪神と言えば、日本のお化けのイメージでもメジャーであるから傘お化けや提灯お化けといった類も付喪神の一種とされるのですが、彼らは神様というよりも、どちらかと言えば妖怪です。それにも理由があり、百年を経て魂が宿ることを避けるために、昔の人は百年を迎える前の九十九年で道具などを捨てました。しかし、道具たちは後一年で魂を得られたことを恨んで妖怪化したとされます。そんな逸話からも付喪神は“九十九(つくも)神”とも表記されます。熊徹が転身した付喪神は、前者のようなしっかりとした神のような存在と考えてよいでしょう。

熊徹は死んでしまったのか?

付喪神になったことで、まるで熊徹はその命を犠牲にしてしまったかのようにもみえますが、死んでしまったという表現は正しくはないのかもしれません。映画の最後に九太と心中で会話を交わしてはいるので、本当にそのままの意味で九太の心の中で生き続けているという見方はできるでしょう。

ただし、それは九太が「熊徹ならそう言うのでは……」という想像をしている描写にも見えるのが面白いところ。『寄生獣』のミギーや、『ヴェノム』のヴェノムのように自在に会話できるかと言えば、そうではないのかもしれません。

死者との距離で言えば、象徴的なキャラクターがバケモノの子にはもう一人存在します。それが、九太が渋谷で遭遇する不思議な動物チコです。作中では、九太が暴走してしまった時に止めに入ったりといった活躍をしますが、何度も九太の亡き母親と重ねるように描かれます。さも、九太の母親が転生した姿がチコなのかというような描かれ方をしていますが、その真相までは明言せず、観客の想像に委ねられるまでとなっています。

ただ、もしもチコが九太の母親だったとしたら、その距離感は心の剣となった熊徹と近いのかもしれません。言葉は自在に交わせるわけではないけれども、九太のためにいつも側にいる存在。そんなチコの在り方を思うと、そもそもバケモノの子』が描く死生観では、死んでしまった者は生者とはこれまでのような関わり方はできないけれども、別の形で支え続けていけるのでしょう。

そう思うと逆説的に、熊徹も死んでしまった存在ではあるのかもしれませんが、チコのように九太を支え続けていく存在になったと解釈もできるでしょう。

心の剣としてなのか、それともチコとしてなのか、はたまた別の形としてなのか。大切な人を失ってしまった時、何らかの形で、あなたの側で影響を残し続けてくれる存在が居ることをバケモノの子は語ってくれているのです。

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(C)2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS

※2021年7月9日時点の情報です。

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