誰もが知る超有名ファッションブランド「グッチ」。イタリアの家族経営企業として一大帝国を築いたものの、一族は現在、グッチの経営に全く絡んでいません。
一体なぜそうなったのか。創業者グッチオ・グッチの時代から約30年のさまざまな紆余曲折を語る、グッチの歴史をまとめた同名ノンフィクション小説を映画化したのが、現在公開中の『ハウス・オブ・グッチ』のはずなのですが……。
完成した映画は史実に忠実……というよりも、より映画的にエンターテイメントとして改変された衝撃作に仕上がっていました。
それでは、いろいろと物議をかもしている『ハウス・オブ・グッチ』をネタバレありでご紹介します。
※以下、『ハウス・オブ・グッチ』未見の方は、観賞後にご覧ください。
※以下、原作のノンフィクション小説「ハウス・オブ・グッチ」のネタバレを含みます。
『ハウス・オブ・グッチ』(2021)あらすじ
1978年、イタリアのミラノで父親が経営する運送会社で働くパトリツィア・レッジャーニと、高級ブランド「グッチ」創業者の孫マウリツィオ・グッチが出会い、恋に落ちます。
マウリツィオは父でグッチ創業者の四男であるロドルフォに結婚の承諾を得ようとしますが、ロドルフォはパトリツィアを「グッチ」の名前に目がくらんだ財産狙いの女だと言って猛反対し、マウリツィオはグッチ家を出てパトリツィアの実家で働き始めます。
2人の結婚式にも、グッチ家の人間は誰も来ませんでした。
しかし、創業者の次男でグッチを大企業に発展させたアルドは、ロドルフォに対し「このまま意地を張っても寂しい老後になるだけだ」と説得。
一方のパトリツィアもTVで偶然見かけた占い師ピーナ・アウリエンマと親密な仲になり、彼女の助言を受けて、グッチの家業を継ぐようにマウリツィオを焚きつけます。
そして、マウリツィオたちに娘アレッサンドラ(マウリツィオの母と同じ名前)が生まれたころにロドルフォたち親子は和解、パトリツィアもグッチ家の一員となりました。
ロドルフォはその後病死し、アルドの海外ビジネスを手伝うためにニューヨークに渡ったマウリツィオたち。そこで、パトリツィアは巷にグッチの偽物が出回っていることに気づき、アルドに指摘しますが、気にも留めない彼のいい加減さに憤慨します。
それからパトリツィアはだんだんと夫を通じて経営に口を出すようになり、アルドの無能な息子パオロを利用して、アルドの脱税疑惑を公にし、逮捕させます。そしてパオロも、彼が始めた別のファッションビジネスがグッチのデザインを盗用しているとの疑惑で訴訟。
マウリツィオはパトリツィアの指示で他のグッチ一族を経営から退け権力を手にしますが、権力欲と独占欲が強い妻に不信感を募らせていきました。その後、マウリツィオたち夫婦もロドルフォからグッチの株を相続した際の署名偽造が発覚し、警察に追い詰められます。
現実逃避するかのようにバイクでスイスのスキー場まで逃げたマウリツィオは、そこで昔の友人のパオラ・フランキと再会し、その後彼女と親密になっていきました。
その後アルドとパオロは生活のためにグッチの株を売って会社から完全に身を引き、マウリツィオは会社を完全に牛耳るようになります。
その一方で、マウリツィオはパトリツィアへの愛情を完全に失い、離婚を宣告してパオラと暮らし始めました。
夫から愛をつかされ、プライドも傷つき、慰謝料をもらいながらみじめな気持ちで生活するなか、パトリツィアはピーナからの助言を受け、恐ろしい計画を立てます。
「マウリツィオを殺してしまおう」と…。
原作「ハウス・オブ・グッチ」との違い
本作『ハウス・オブ・グッチ』は、存命のグッチ一族や関係者から、さまざまな点で史実と違うと猛批判を受けていることが報道されています。
その批判のなかに、原作のノンフィクション小説「ハウス・オブ・グッチ」自体も不正確な点があるということが挙げられていました。
筆者も映画鑑賞前にその原作を読んで臨んだのですが、「何が史実か」という点に言及すると調査時間も文字数もとんでもないことになりそうなので、あくまで「原作と映画の違い」についてお話していきます。
まず結論からいうと、完成した映画は原作のいろんな箇所をカット、もしくは手短に説明した上に、原作にはない場面(そしておそらく史実でもない)の比重を大きく描き、登場人物も大幅に減らし、人物像も変えていました。
例えばロドルフォがパオロを散々無能だと罵った後、パオロがロドルフォのデザインしたスカーフに小便をかけるシーンや、パトリツィアがテレビの生放送に出ていた占い師ピーナを見てすぐに電話をかけ放送中に会話して、その後意気投合するシーン、スイスに逃げたマウリツィオがスキー場でパオラと偶然再会するシーン(そもそもパオラはマウリツィオの元からの知り合いではなかった)などなど。
ちなみに、アルドのパオロ(次男)以外の2人の息子も、パトリツィアのマウリツィオとパトリツィアのもう一人の娘のアレグラも、パトリツィアが逮捕されてからも彼女を心配し世話をしていた実母シルヴァーナも映画には登場していません。
また、映画ではパトリツィアからマウリツィオに話しかけてグイグイ攻めたように見せていましたが、原作ではマウリツィオの方からパトリツィアを見初めてアプローチしたことが書かれています。
グッチの偽物の存在を問題視したり、アルドからビジネスを乗っ取ることを決意したのも、その方法を考えたのもマウリツィオ本人だと原作には書いてありますが、映画ではパトリツィアにそそのかされて、戸惑いながら実行したようにピュアに描かれていました。
そして、パトリツィアが経営に口を出し、一族間のパワーバランスを崩したのは事実のようですが、映画は彼女を主役にして、グッチ一族衰退の元凶のように描いています。ほとんど「マクベス夫人」ですね。
映画が始まってすぐに出る「INSPIRED BY TRUE STORY」の字幕通り、本作は実話及び原作を「原案」とした作品ととらえた方がいいでしょう。
『ハウス・オブ・グッチ』はユーモア満載のブラックコメディ?
さて、上記の大胆な改変を経た『ハウス・オブ・グッチ』を観てみたところ、筆者の感想としての本作は、「“豪華絢爛なグッチ一族の繁栄と崩壊”を題材にしたブラックコメディ」という評価になりました。
巨匠リドリー・スコットのフィルモグラフィのなかでも、かなり毒っ気が強い映画ではないでしょうか。
本作のプロデューサーでスコット監督の妻であるジャンニーナが、原作を読んで興味を持ち20年温めていた企画で、若手脚本家のロベルト・ベンティベーニャが、徹底的に史実を調べたうえで独自の要素を加えた脚本を持ってきたことで動き出したとのことです。
確かに、これまでも『白い嵐』(1996)『アメリカン・ギャングスター』(2007)『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(2021)など、史実を冷徹かつ皮肉な目線で描いてきたスコット監督が気に入るのも当然の要素が詰まっています。
本作は、明らかにグッチ一族の物語を戯画化して、ソープオペラ(いろいろ意味がありますが、ここでは「通俗的な物語」という意味で使います)として描いています。
アル・パチーノが出ていることや(ちなみにロドルフォ役は当初ロバート・デ・ニーロが考えられていたとか)、家業を継ぐつもりのなかった息子が巻き込まれる悲劇という点で『ゴッドファーザー』シリーズも連想されますが、もっとプロトタイプ的な、いわゆる「貴族の崩壊」モノです。
要するに「はたから見たら栄華を極めている人々(一族)も、内情はゴタゴタだらけで幸せとは限らない」というような、ベタベタの愛憎劇です。
「そんなわけないだろ」と思うような場面や大げさな演出も、ベタ且つたまに意表を突く選曲も、ブラックユーモアの一環としてとらえることができるでしょう。
ちなみにリドリー・スコットは、グッチ家からの本作への批判に対し、(要約しますが)「グッチ家は一族内で殺人が起き、脱税による逮捕者も出している。もう彼らの存在は“パブリックドメイン”になっているのだ。」とコメントしています。
このコメント自体がもう『ハウス・オブ・グッチ』という作品の一部になっている気もしますし、これ以上ないくらいの本作への批評になっていると思います。
ブラックコメディに合わせたハイレベルな演技
リドリー・スコットはパンフレット等に乗っているインタビューで、「一度信頼してキャスティングした俳優に細かく注文を付けることはしないし、役へのアプローチも個々に任せる」と語っています。
そして、おそらくキャストたちも前述のように「ブラックコメディ」として本作を作るという意図を組んだのか、的確且つやりすぎなくらいにオーバーなグッチ家の人々を演じていました。
まず、誰もが脳裏に焼き付くであろうパトリツィア役のレディ・ガガの熱演は、本作最大の魅力ではないでしょうか。
ほとんどアクションシーンのような序盤の激しすぎる濡れ場や、数々の啖呵を切る場面、ピーナと共謀する場面の思いつめた表情、そして結局自分では手を汚さずに、人生に行き詰っている庶民の男2人を実行犯にして(彼らの方が刑が重かったのも、ものすごい皮肉です)脅しをかける場面などのすごみもありつつ、純粋にマウリツィオに恋をしている乙女チックな一面も繊細な表情と動きで表現しています。
「結局パトリツィアが何を考えていたか、本当にはつかみきれない」という点まで再現した名演で、アカデミー賞主演女優賞ノミネートの線は濃いでしょう。
もちろんマウリツィオ役のアダム・ドライバーも、血縁にコンプレックスを感じ(『スター・ウォーズ』シリーズのカイロ・レン)、愛し合った女性と倦怠期になる男(『マリッジ・ストーリー』(2019))などの経験からか、得意な役柄をきっちり演じていますし、アル・パチーノの貫禄たっぷりながらもどこかコミカルな権力者アルドの演技も絶品でした。
そして、昨年から色々と物議を醸している、パオロ役のジャレッド・レトの熱演にも触れておかなくてはいけません。
レトはリドリー・スコット作品に出たくてたまらず、どんな役でもいいと希望を出した挙句に、撮影時に毎日6時間をかけて特殊メイクをし、異端者であるパオロを熱演しています。
「ほかの俳優とトーンがあっていない」「パオロはあんな人間ではなかった」との声もありますが、今回のブラックコメディとしての『ハウス・オブ・グッチ』には、この過剰な演技はあっていたのではないでしょうか。観客に「この映画は“笑っていい映画”ですよ」「リアリティを重視した映画じゃありませんよ」と説明し、楽しませる役割を十二分に果たしています。
パオロは原作によると、経営能力はともかく、ファッションデザイナーとしての確かな才能があったことは記述しておきます。
ドラマを盛り上げる音楽演出も独特
リドリー・スコットは「今回私がいちばんこだわったのは音楽だ」と語っています。
『ハウス・オブ・グッチ』の音楽遣いはかなりわかりやすく、例えば序盤でマウリツィオとパトリツィアの濡れ場ではオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」、その直後の結婚式ではジョージ・マイケルの「Faith」が流れていました。
「乾杯の歌」は、「この世はすべて狂気」「愛の喜びは束の間だ」と歌い上げている破滅的な意味の歌詞を含みますし、「Faith」は「君は魅力的だけど、君がやろうとしていることはわかる。君と一緒にいたらだめになる。強い男にならなくては」という意味の歌詞で、どちらもその後のパトリツィアとマウリツィオの運命をあからさまに示唆しています。
また、予告編でも大々的に流れていたブロンディの「Heart Of Glass」の歌詞の内容は「前は確かに恋をしていたけど、それはすぐにダメになった。私たち本当はうまくやれたはずなのに。」と、こちらもマウリツィオとの関係の不和で悩みまくっていたパトリツィアの気持ちを表現。
さらに、エンドロールで流れるトレイシー・チャップマンの「Baby Can I Hold You Tonight」も「“ごめん”という言葉があなたの言えるすべてなの?こんなにも長く一緒にいたというのに」と、愛が消え去ってしまったことの悲しみを歌詞にした曲でした。
こういうわかりやすい選曲も、リドリー・スコットが本作を壮大な「ソープオペラ」として撮っているからではないでしょうか。
切ない恋愛映画としての側面と『最後の決闘裁判』との対比
上記の劇中歌の歌詞や、原作の内容、リドリー・スコットやレディ・ガガのインタビューでの解釈等を見ても、本作は「パトリツィアは財産目当てだけではなく、本当にマウリツィオを愛していた」と結論付けて描いていると思います。黙っていてもある程度の慰謝料は入るのに、マウリツィオが再婚しそうなタイミングで彼を殺すのは損得以外の愛憎があったからでしょう。
しかし、パトリツィアが野心に溢れたプライドの高い女性であったのも確かです。
原作では、パトリツィアが裁判中に「マウリツィオは“今は君と違って、黙って三歩下がって自分の後をついてくる女性と付き合っている”と語ってきた。私はそんな女とは違ったわ。」と供述したことも書かれています。
おそらくパトリツィアは自分の個性を尊重し、名誉をもたらしてくれるマウリツィオを好きになっていたからこそ、彼の裏切りが許せなかったのでしょう。グッチ夫人という立場を失ったパトリツィアに向けられる世間の好奇の目も、彼女を追い詰めたのかもしれません。
スコット監督の前作『最後の決闘裁判』では、中世の封建主義社会で夫に頼って生きるしかないヒロインの悲しみが描かれていました。描き方は真逆でも、パトリツィアも同様に主人公として、現代の人々に世の中の無情さを伝えるキャラクターとして見ることができるでしょう。
判決を告げられるラストでも、自分が「グッチ夫人」であることを強調する虚ろな表情は忘れられません。
誰もが楽しめる辛口エンターテイメント
ここまでいろいろと書いてきましたが、筆者が言いたいのは「グッチ」のアイテムを一つも持っていないし、ファッションブランドやらその金持ちの経営一族の話には興味がないという人こそ、ブラックコメディとして楽しめるということです。
それにしても、80代半ばでこんなにもブラックユーモアを前面に出した感傷0のエンタメをサラッと作ってしまうリドリー・スコットは恐ろしい監督ですね。今後の作品にも、期待が高まります。
『ハウス・オブ・グッチ』作品情報
■公式HP:https://house-of-gucci.jp/
■公開日:2022年1月14日(金)
(C)2021 METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. ALL RIGHTS RESERVED.
※1月20時点での情報です。