『アイ,トーニャ』を観る前に知っておくべき基礎知識「ナンシー・ケリガン事件」とは?

「映画」を主軸に活動中のフリーライター

春錵かつら

フィギュアスケートといえば、いまや日本で最も人気なスポーツのひとつ。

2月に行われた平昌五輪での視聴率は、フィギュアスケートが大会最高視聴率を記録。関東地区では男子フリーの平均視聴率が33.9%、最高視聴率ではなんと46.0%と、その人気のほどがうかがえる。中でも羽生結弦選手の超絶人気は日本国民の知るところ。

平昌五輪での最高視聴率は羽生選手の金メダルが確定した瞬間のものだし、先日行われた祝賀パレードには10万人以上が訪れて、ゴミをほぼ残さず持ちかえったマナーの良さも話題となった。

こうした“国民的スター”や“世界的スター”は、話題にあがればあがるほど、人気が出れば出るほど、アンチと呼ばれる否定派の存在も目にするようになる。ファンの愛やアンチの憎、数知れぬ愛憎を一手に引き受けなければならないのはスターの宿命かもしれない。でもそれは若きアスリートにとっては、とても酷なことだ。

かつてアメリカ全国民に愛され、そして瞬く間に憎まれたフィギュアスケーターがいた。彼女の名は、トーニャ・ハーディング。

アイ,トーニャ

5月4日(金)に公開となった『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』は、そんなフィギュアスケート界のスターだったトーニャ・ハーディングの人生と、憎まれる原因となった“ある事件”の真相に迫る物語だ。

本作を観るにあたって知っておくべきことがある。当時のフィギュアスケート界に激震をもたらし、今でも語り継がれるあの事件「ナンシー・ケリガン事件」について、今一度触れようと思う。フィギュアファンも映画ファンもぜひ、本作の観賞前に予備知識として頭に入れておいていただきたい。

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トーニャ・ハーディングという人物

事件の前に、トーニャ・ハーディングという女性のことを知らなければならないだろう。

1970年、アメリカ・オレゴン州の貧困家庭に生まれたトーニャは、4歳からフィギュアスケートの才能を発揮しはじめる。1991年、トーニャは女子フィギュア史上では2人目、アメリカ人では初となるトリプルアクセルを成功させた選手として一躍脚光を浴びる。ブロンドの髪にうるんだ青い瞳、鼻筋の通ったその美貌はアメリカ国民を虜にし、彼女は瞬く間にスターに。

アイ,トーニャ

トーニャについて、日本でもっとも知られているのは、1994年のリレハンメル五輪だ。失格ギリギリで遅れて氷上に現れた彼女が泣きながら演技を中断し、審査員に右足を上げて必死に何かをアピールしている姿だろう。

私も当時テレビでその光景を目にし、呆れた人間の一人だった。というのも、そのひと月前、彼女はライバルのナンシー・ケリガンが暴行を受けた“あの事件”の首謀者だということが日本でも報道されていたから。

そしてその後、トーニャの姿を公に見ることは(特に日本では)なかった。その原因は、やはり“あの事件”にほかならない。

ナンシー・ケリガン事件

ナンシー・ケリガンは1969年生まれ、トーニャよりひとつ年上のライバルだった。トーニャがトリプルアクセルを成功させた1991年の全米選手権では、トーニャが1位でナンシーが3位、1992年の同選手権ではナンシーが2位でトーニャが3位と言った具合に、ふたりの成績は拮抗。そしてその2年後、事件は起きる。

1994年1月6日、ひと月後に行われるリレハンメル五輪の出場を賭けた全米選手権当日。練習を終えたナンシーが膝を殴打され負傷、そのまま全米選手権を欠場するという事件が発生。トーニャはこの大会で優勝し、五輪代表権を手にするが、その後に容疑者として逮捕されたのはなんと彼女の元夫! 一緒に夫の友人も逮捕されるものの、疑惑の目は一気にトーニャへと向かうことに。

アイ,トーニャ

「事件の首謀者はトーニャで、自身のライバルを元夫とその友人に襲わせた」というニュースが日本でも連日放送された。

この事件が世間をにぎわす最中に開催されたオリンピックでの世界の人々の関心は国同士の順位争いではなく、むしろ“悪女トーニャ”と、特別参加となった“悲劇のヒロイン”ナンシーの対決。ところがここでトーニャにアクシデントが起こる。

フリー演技の出番になっても彼女はなかなか姿を現さず、失格ギリギリとなる1分50秒過ぎに登場。演技開始後には突如泣き出して演技を中断、ジャッジの元へ行き右足をリンクの縁にかけ、涙ながらに訴えるシーンが世界中に放映された。

アイ,トーニャ

靴紐の不具合が理由とされるそのアピール後、彼女は演技のやり直しを認められ無事演じきるが、結果、ナンシーは2位で銀メダルを獲得、トーニャは8位。人々の冷ややかな視線が印象に残る五輪となった。

3月、五輪のため延期になっていた件の裁判が開かれ、トーニャは罪を認めることで懲役刑を免れて3年間の執行猶予、500時間の奉仕活動、そして罰金16万ドルを受け入れる司法取引に応る。全米スケート協会は、1994年全米選手権での優勝を剥奪してトーニャを追放。こうして彼女のスケート人生は幕を閉じたのだった。一方ナンシーは、その五輪後プロに転向。結局トーニャの関与の真相は分からぬままとなった。

これがナンシー・ケリガン事件の全容だ。

<簡易版>フィギュアスケートの基礎知識

さて、ここで本作『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』をより楽しむために、知っている人も知らない人も、本作と関連のあるフィギュアスケートの基礎知識をおさらいしていこう。

採点

ジャンプ・スピン・ステップなどの「エレメンツ(技術要素)」と、スケーティングスキル・トランジッション・ パフォーマンスなどの「プログラムコンポーネンツ(演技構成)」を様々な要点と角度から採点を行う。

2002年までは「6.0満点方式」だったが、2003年からは「ISUジャッジングシステム」という採点方法に変更された。現在のフィギュアスケートの中継では観られないが、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』の中では「5.8」「5.9」「5.8」……といった旧式の「6.0満点方式」で採点されている様子を観ることができる。

コンパルソリー(コンパルソリー・フィギュア)

1990年まで行われていた種目のひとつで、氷上で課題となっている図形を描いてその時の姿勢や滑った跡の図形の正確さを競う種目。スクールフィギュアとも呼ばれ、この種目こそがフィギュアスケートと呼ばれる所以。

トーニャはこの種目が苦手でなかなか成績が残せなかったが、1991年、この種目が廃止されたことでめきめきと頭角を現した。競技で見ることはほぼなくなったが、フィギュアで級を取るためのバッジテストの一部では実施されている。

ショート(プログラム)

2分40秒±10秒で行われる種目のひとつ。男女それぞれ決められた7つの要素を行う。1972年からはコンパルソリーの比重を下げる目的で導入され、コンパルソリーの廃止後の1989年から1992年シーズンはオリジナルプログラム、1993-1994年シーズンはテクニカルプログラムと呼ばれた。

フリー(プログラム)

男子シングルは4分30秒±10秒、女子シングルは4分±10秒、ペアは4分30秒で行う種目。男子は13、女子は12、ペアは11の決められた要素を組み込む。

楽曲

シングル、フリーで演技中に使用する音楽のこと。以前は、ヴォーカル入りの音楽は減点対象だったものの、アイスダンスは1990年後半に、男女シングルでは2014年より使用が認められた。

私のお気に入りであるウズベキスタン出身の選手、ミーシャ・ジーなどは、過去に減点を承知でヴォーカル入りの楽曲使用を貫き、「減点なし」のジャッジを得て話題となった。

着氷

ジャンプした後に降り立つ瞬間のこと。ジャンプ失敗を着氷失敗と言ったりする。

着氷と聞いて思い出すのは織田信成。いまやすっかり名解説が板についているが、現役時代の彼の着氷は素晴らしく美しかった。膝と足首がものすごく柔らかく、ジャンプが成功した時の着氷は毎回ホレボレし、ファンの間では「猫足着氷」とも呼ばれるほど。トーニャのように靴紐の問題で演技を中断し、ジャッジに涙ながらに訴えたのは今となってはご愛嬌だ。

コンビネーション

2回以上連続した要素を指す。コンビネーションジャンプなら2回以上続けたジャンプ、コンビネーションスピンなら2回以上続けてスピンすること。

スピン

回転のこと。基本的なスピンは3種類で、まっすぐに直立したアップライト系スピン、しゃがんだ状態のシット系スピン、上体と片足を氷と平行の位置に保ち、T字型になって回るキャメル系スピンがある。

スピンと言えば、女子は「スピンの女王」と呼ばれたスイスのルシンダ・ルー。男子では同じくスイスのステファン・ランビエール。この二人のスピンはまさに芸術作品。ルーはスピンのスペシャリストとして浅田真央のスピン指導を、ランビエールはラトビアのデニス・ヴァシリエフスのコーチをしていて、ヴァシリエフス選手のスピンにはその片鱗が見える。

ステップ

エッジのさまざまな箇所に体重を移動し、氷上でのダンスのように、細かいターンなどを入れながら滑る要素のこと。

ステップで真っ先に思い浮かぶ男性スケーターといえば、なんといっても高橋大輔。深いエッジワークとリズム感、上半身から下半身のみならず指先まで力の行き届いたステップシークエンスは「世界一のステップ」と称され、ステップシークエンスに入った途端に拍手喝采が起きることが度々あった。

ジャンプ

氷上に跳び上がり回転する技のこと。公式に認められているジャンプはトウループジャンプ、サルコウジャンプ、ループジャンプ、フリップジャンプ、ルッツジャンプ、アクセルジャンプの6種類。

アクセル

前向き姿勢で踏み切る最高難度のジャンプ。6種類のジャンプの中でアクセルだけが前向きのまま踏み切るので実質的には1/2回転加わることになる。フィギュア女子史上二人目という、トーニャが決めたトリプルアクセルは、3回転半跳んでいるということで、女子にとってはとても難しいジャンプ。

ちなみに史上初のトリプルアクセルを跳んだのは、日本人選手の伊藤みどり。近年では浅田真央の最大の武器として有名。4回転アクセルを跳んだ選手はまだいないが、羽生選手が挑んでいる最中。世界初の4回転アクセル成功者になる可能性に期待がかかる。

ルッツ

アクセルの次に難しいとされるジャンプで、少し長めに「左足外側エッジ」に乗って後ろ向きに滑走し、左肩を入れ右のトウをついて跳ぶ。「左足内側エッジ」に体重を乗せてしまうと減点対象に。

トーニャはなんと、12歳の頃にはトリプルルッツを成功させていた。

フリップ

ルッツと見分けるのが難しいジャンプ。ジャンプする直前に左足内側のエッジに乗り、右のトウをついて跳ぶ。前向きに滑走して踏み切る直前にぱっと後ろ向きになって跳ぶことが多い。

ちなみに4回転が主流となった男子シングルだが、世界で初めて4回転フリップを決めた選手は日本の宇野昌磨だ。

ループ

右足踏み切りで、トウを使わないジャンプ。

トゥループ

一番簡単とされるジャンプ。右足外側のエッジに乗り、左足のトウをついて踏み切る。

サルコウ

ループ、トウループと同じく、ジャンプする直前の体の進行方向が、ジャンプの回転方向と同じ。女性で初めて4回転サルコウを決めたのはあの安藤美姫。

イーグル

両足を伸ばした状態で180度に広げ、つま先を外に向けて開いた状態で滑っていく技。

もはや宇野選手の十八番といってもいい両足のひざを曲げて上半身を後ろに反らせたまま行う“低いイナバウアー”のようなあの技もイーグルのひとつ。ロシアのイリヤ・クリムキンがしたことから「クリムキン・イーグル」と呼ばれている。

イナバウアー

足を前後に開き、片方の膝を曲げもう片方は後方へ引いて伸ばし、つま先を開いて横に滑る技。

日本では荒川静香の演技で一気に有名になったが、彼女のように上半身を反らせるのはバリエーションのひとつ。トーニャのプログラムの中にもイナバウアーがたびたび組み込まれている。

演技の中断

フィギュアスケートの演技中にアクシデントがあった場合には中断することができる。以前は減点されなかったが、現在では10秒以上の中断は時間に応じて減点。

衣装

現在は女子のパンツスタイルもOKとなったが、フィギュアスケートの衣装はこれまでに様々なルール変更を経ている。

アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』ではトーニャが自分で衣装を縫っているシーンがたびたび登場するが、事件が起きた1994年、フィギュア界ではノースリーブの衣装が解禁になった。
(参考:日本スケート連盟 ホームページ

最後に

本作『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』は、アメリカ国民にとっては賛否はあれど「ナンシー・ケリガン事件」の真相を、日本にいる私たちにとってはその真相に加えて彼女の育った環境や、あの事件に至るまでの背景を描いた非常に興味深い作品となっている。

フィギュアスケートファンにとっての楽しみは、なんといっても選手と一緒に氷上を滑っているような気分が味わえるカメラワーク。選手の目線で観客席や審査員席の景色が流れる様子はとってもワクワクする。

そして特筆すべきは、トーニャの衣装だけでなくプログラムが当時のままそっくり再現されていること。『ターザン:REBORN』『スーサイド・スクワッド』とはガラリと変わった役柄であるトーニャ・ハーディングを演じることになったマーゴット・ロビーは、クリスマスに大みそか、自身の結婚式の前日までもスケートの特訓を行ったのだとか。毒母を演じたアリソン・ジャネイにも注目したい。

トーニャ・ハーディング、その名前を思い出す時、ほとんどの人がもはやあの事件後の彼女の姿しか浮かばない。フィギュアスケート界を追放された彼女はその後、プロスケーターとしての活躍も別の暴行事件で完全に閉ざされ、プロボクシングや総合格闘技などでデビュー、波乱の人生を過ごした。

ですが、あの1991年。全米選手権でのトーニャの演技は本当に神がかっていて、あの才能が本人のせいなのか、誰かのせいなのか、埋もれてしまったことは、残念としか言いようがないことは事実。そして本作は冒頭でこう述べている。

これはトーニャ・ハーディングとジェフ・ギルーリーの
大マジメな真実のインタビューに基づいている。
大いに異論はあるだろうが……

本作『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』を観た人は、これまでのトーニャ像がガラリと変わるはず。私がまさにそうだったように。果たして真実は如何に……!?

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