映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』エンディングに隠された意味とは?マドレーヌが象徴するものとは?徹底考察【ネタバレ解説】

ポップカルチャー系ライター

竹島ルイ

映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』エンディングに隠された意味とは?歴代「007」シリーズとは違う点とは?ネタバレありで徹底考察!

ジェームズ・ボンドの活躍を描く人気シリーズの第25弾にして、ダニエル・クレイグがボンドを演じる最終作となる『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021)。

前作『007 スペクター』(2015)から引き続きマドレーヌ(レア・セドゥ)、M(レイフ・ファインズ)、Q(ベン・ウィショー)、マネーペニー(ナオミ・ハリス)が出演し、最終章を締めくくるのにふさわしい“最恐の敵”としてサフィン(ラミ・マレック)が登場する。

という訳で今回は、『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』をネタバレ解説していきましょう。

映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2019)あらすじ

ジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)はMI6から身を引き、恋人マドレーヌ(レア・セドゥ)と共にジャマイカで静かな生活を送っていた。だが、平穏な日々は長くは続かない。ボンドはイタリアの地で襲撃に合い、再び血と暴力にまみれた世界へと舞い戻ることになる……。

※以下、映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』のネタバレを含みます。

大英帝国が生んだ、あまりにも“保守的”なフランチャイズ

イアン・フレミングの人気スパイ小説を映画化した『ドクター・ノオ/007は殺しの番号』(1962)から、「007」シリーズの伝説は幕を開けた。高級スーツに身を包み、世界各国を股にかけ、あまたの美女とラブ・アフェアーに興じる稀代のプレイボーイ。世の男性はジェームズ・ボンドに羨望の眼差しを向け、時代のアイコンとなった。

大英帝国が産んだ偉大なフランチャイズ、「007」。そこには、数々のお約束が散りばめられている。

・映画の冒頭には、銃口を向けられた007が振り向きざまに銃を撃つ「ガンバレル・ショット」が挿入される。

・「ガンバレル・ショット」直後に、怒涛のアクション・シーンが盛り込まれた「アバンタイトル」が挿入される。

・主題歌は、時代を代表するアーティストが担当する(イギリス人アーティストを優先して起用するケースが多い)

・自分の名前を名乗る時には、「ボンド、ジェームズ・ボンド」と言う。

・ウォッカ・マティーニは、ステアではなくシェイクで。

・ボンドガールと呼ばれるグラマラスな美女が登場し、ボンドとイイ感じになる。

だが、「007」はあまりにも定型のコードに縛られているがために、時代に取り残された作品にもなっている。60年代は映像的に目新しかったであろう「ガンバレル・ショット」も、現在の視点で見ると正直ツラいし、荒唐無稽なプロットもリアリティを欠く。

主演俳優、監督、ミュージシャンなど、英国第一主義的な座組もあまりに保守的。『慰めの報酬』の主題歌「Another Way To Die」を、アリシア・キーズとジャック・ホワイトが担当したときには、非イギリス人ミュージシャンであることにオアシスのノエル・ギャラガーが憤慨し、「俺が作った曲の方がピッタリだったのに!」と発言したのは有名な話。

また、ボンドのミソジニーっぷりにも批判が集まった。ミッションを完遂させるためならば、彼は容赦なく女性に対して暴力を振るう。そしてボンド・ガールと呼ばれる女性たちは、物語を華やかに彩る添え物でしかなく、大体において非業の死を遂げる。凝り固まった白人男性至上主義が頭をもたげているのだ。近年の「MeToo運動」と連動して、その非難はさらに高まりつつある。

「007」は、長年培ってきた“伝統”と、アップデートされた価値観をどう提示するかという“革新”のあいだで揺れ動いてきたシリーズともいえる。水と油のごとく相反する要素を、どう一つの作品の中で融和させるのか。エンターテインメントとしてどう昇華させるのか。そこに真正面から斬り込んだのが、クレイグ版「007」シリーズなのである。

そもそもダニエル・クレイグが演じた007像は、これまでのボンド像とは一線を画していた。ショーン・コネリー、ジョージ・レーゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナン。偉大なパイセンたちからバトンを受け継ぎ、彼が6代目ジェームズ・ボンドを襲名する際には、保守的なファンを中心にバッシングが巻き起こっている。178cmの身長は過去のボンド俳優に比べると小柄だし、青い目のブロンドという外見もこれまでのイメージとかけ離れていた。

記者会見では無愛想な態度で出席して、マスコミ受けは最悪。ザ・ミラー紙からは「新しいボンドに必要なカリスマはゼロ」だと酷評された。このあたりは、ドキュメンタリー番組『ジェームズ・ボンドとして』(2021)を観ると面白い。新聞で「(クレイグのボンドに)国民の71%が反対」という記事を読んで、クレイグがショックを受ける場面も出てきたりする。

それでもクレイグは、「初代ボンドのショーン・コネリーでさえ、最初は非難にさらされ続けたんだ!」と、逆境をバネに奮起。誰もが共感し得る血の通ったジェームズ・ボンドを演じることで、多くのファンの心を掴むことになる。

それはもちろん、クレイグ自身のたゆまぬ努力の賜物でもあるのだが、新しい「007」シリーズがレギュラードラマではなく、ストーリードラマに舵を切ったことに起因する成果でもあった。

“アイコン的存在”から、“血の通った人間”へ

映画監督・スクリプトドクターとして活躍されている三宅隆太さんの解説によれば、脚本は大きく2つに大別できるそうな。

レギュラードラマ

主人公の周りに起きた事件・出会った登場人物が、次の作品になるとリセットされている「一話完結型」。

ストーリードラマ

主人公の周りに起きた事件・出会った登場人物が、経験として積み重なっていく「続き物」。

かつての「007」は、(緩やかな繋がりはあるものの)一話完結型のレギュラードラマ。毎回設定を変え、新しいキャラクターを配置させることによって、長い間人気を保ち続けることができた。だが、ボンド自身はいっさい成長しない。毎回ストーリーがリセットされるものだから、過去にベッドを共にした女性が拷問されようが、殺されようが、それを顧みることもない。

しかしクレイグ版は、明らかにストーリードラマ。「カジノ・ロワイヤル」(2006)は、ボンドが諜報部員として殺しのライセンスを得たばかりの「007誕生譚」であり、その続編「慰めの報酬」(2008)は前作のラストシーン直後から物語が始まる。今回の「ノー・タイム・トゥ・ダイ」も、「スペクター」のラストシーンから直接繋がる構成になっている。我々は、クレイグ版になって初めて「成長するボンド」を目撃することができたのだ。

特筆すべきは、「スカイフォール」(2012)だろう。「慰めの報酬」までは新米キャラだったはずなのに、いつの間にか「前時代の遺物」としてロートル扱いされているボンド。ベテラン諜報部員となった彼は、意を決して自分自身の過去と対峙する。己の歴史を顧みる行為とは、まさに成長に他ならない。常に未来を見据えて行動してきたボンドは、過去を振り返ることでキャラクターとしての深みが増し、より人間的な面を見せていく。

「スカイフォール」で提示された「過去との対峙」というテーマは、その後も踏襲される。「スペクター」の悪役オーベルハウザーは、幼少時からの因縁がある義理の兄弟という設定だし、今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』では、「カジノ・ロワイヤル」で愛し合いながらも死別したヴェスパーの墓を訪れるシーンが登場する。ボンドは過去から目を背けず、しっかりとその背中に歴史を刻んできたのだ。

印象的なのは、映画のラスト。Mが故ボンドを悼んで読み上げるのは、アメリカの小説家ジャック・ロンドンの言葉からの引用だ。

「人間の本来の役割は、存在することではなく、生きることだ。日々を長引かせようとして無駄にすることはない。私は自分の時間を生きよう」

まさしくクレイグは、ボンドを“存在するだけのアイコン”から、“今を生きる血の通った人間”に生まれ変わらせたのである。その触媒となったのが、マドレーヌ・スワン。ボンドは彼女と知り合うことで、失われていた時間を取り戻し、未来へと歩みを進める。

すでに多くの識者が指摘している通り、マドレーヌという名前はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に由来しているのだろう。この小説では、語り手がマドレーヌのお菓子を食べることで、記憶の底に眠っていた記憶を蘇らせるシーンがある。しかもこの小説には、スワンという名前の人物も登場するのだ。

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の真のテーマは、タイトルにも記されているとおり、「時間」そのものなのである。

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の大きな革新性とは

クレイグ版「007」シリーズは、“伝統”と“革新”のバランスに細心の注意を払って製作されてきた。「ノー・タイム・トゥ・ダイ」は、特に“革新”において大きな変化が見られる作品になっている。最大の変革ポイントは、ダイバーシティ(年齢、性別、人種、宗教を差別しない取り組み)だ。

象徴的なのは、黒人女性ノーミ(ラシャーナ・リンチ)が新しい007を襲名していることだろう。製作サイドは、はっきりと「MeToo運動を意識したものである」と明言。ボンドガールもボンドレディーという呼称に改められ、映画を艶やかに彩る添え物的存在から、よりリアルで主体的なキャラクターへとアップグレードされた。時代に呼応して、LGBTQ+(セクシュアルマイノリティ)への配慮もなされている。劇中でQ(ベン・ウィショー)が自宅で夕食の準備をしているシーンがあるが、その中で交際相手が男性であることがほのめかされているのだ。

「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の脚本は、「ワールド・イズ・ノット・イナフ」以降の007作品を手がけているニール・パーヴィスとロバート・ウェイドが担当しているが、クレイグの強い要望もあってフィービー・ウォーラー=ブリッジも参加している。BBCドラマ『Fleabag フリーバッグ』で主演・脚本・プロデューサーを務め、2022年公開予定の『インディ・ジョーンズ5』にも出演予定の、今最も注目されている才人だ。クレイグは「作品の方向性を変えるために呼んだ訳ではない」とコメントしているが、彼女が参画したことによってある種の変化が起きたことは間違いないだろう。

主題歌を歌うのは、ビリー・アイリッシュ。ミソジニーやマチズモに真っ向から立ち向かう、新時代のティーンエイジ・ポップスター。オールド・ファッションな「007」シリーズとは対極なアーティスト(そして非イギリス人)を起用することで、“革新”を高らかに宣言している。

そして、監督を務めたキャリー・フクナガ。元々は『トレインスポッティング』(1996)や『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)で知られるダニー・ボイルが演出を務める予定だったが、プロデューサーとの方向性の不一致により降板。シリーズ初のアメリカ人監督、しかも日系4世というルーツをもつ人物が、偉大なる大英帝国産フランチャイズに挑んだのだ。

「カジノ・ロワイヤル」のマーティン・キャンベル、「慰めの報酬」のマーク・フォースターが、直線的なアクション描写でスピード感溢れるスパイ・アクション映画を創造したのに対し、「スカイフォール」、「スペクター」の監督を務めたサム・メンデスは、ロジャー・ディーキンスやホイテ・ヴァン・ホイテマという当代随一の撮影監督を招聘して、画面の隅々まで神経の行き届いたグラフィカルな絵づくりを行った。サム・メンデスは何よりも映像としての官能性に力点を置いたのである。

キャリー・フクナガも基本的にはその路線を踏襲しながらも、官能性というよりは幽玄の美学とでもいうべき、よりダークな映像を創り上げている。通常ならば派手なアクションで始まるはずのアバンタイトルが、今作では「能面を被った敵役サフィン(ラミ・マレック)が、幼少時のマドレーヌを襲う」というホラー的演出になっていることにも、それは顕著だ(ちなみにマドレーヌは、「スペクター」の特急列車のシーンで、父を狙う殺し屋が家に忍び込んだ昔話をしているが、明らかにサフィンのことだろう)。

脚本家として『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』(2017)を手がけているフクナガは、Jホラー的な恐怖演出の手管に長けた映画作家だ。能面だけではなく、和装風の衣装、盆栽、畳など、日本的ワビサビ感満載なのも、Jホラー感を強めている。

『女王陛下の007』へのオマージュ

「ノー・タイム・トゥ・ダイ」は、“革新”に大きく舵を切った作品だ。だとするなら、本作はクレイグ以前の保守的な「007」シリーズを否定しているのだろうか? 答えは、否。本作は、これまでの伝統もシッカリと受け継いでいる。むしろ「ノー・タイム・トゥ・ダイ」には、明らかにオマージュを捧げた「007」作品が存在する。ジョージ・レーゼンビーが2代目ボンドを演じたシリーズ第7作、『女王陛下の007』(1969)だ。

※以下、『女王陛下の007』のネタバレに触れますのでご注意ください。

この映画で、ジェームズ・ボンドはトレーシーという女性に恋をする。彼女は、犯罪組織ユニオン・コルスの首領ドラコの一人娘。細菌兵器を使ったスペクターの恐るべき陰謀を阻止したボンドは、トレーシーと結婚式をあげてハネムーンに向かう。だがその途中でブロフェルドからの襲撃にあい、花嫁は凶弾に倒れてしまう。やがて駆けつけた警官に、ボンドは「彼女は疲れたんで眠ってるんだ」と力なく答え、涙にむせびながら彼女を抱きしめる……。

あまりにも悲劇的な結末。それゆえに当時の観客からの評価は散々で、興行的にも今ひとつだった。だが歳月を経て、現在では「007」シリーズの中でも屈指の人気作に数えられている。ボンドが人間らしい感情を初めて露わにした、初めての作品だったからだ。単なるアイコンから血の通った人間へと、ボンドを生まれ変わらせるキッカケとなったのが、この『女王陛下の007』だったのだ。

スペクターが世界を破滅させるバイオ兵器を製造していたり、マドレーヌの父親が犯罪組織の幹部だったりする「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の設定は、おそらく『女王陛下の007』からの引用だ。その証拠に、本作のエンディングシーンで流れるのは、ルイ・アームストロングが歌う「愛はすべてを越えて」。この楽曲は、『女王陛下の007』の主題歌である。

賛否両論を呼んだ「ノー・タイム・トゥ・ダイ」

巷では、「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の評価は賛否両論真っ二つのようである。色々調べてみると、どうやら否定派は「シナリオが雑すぎるやん!」ということにご立腹のご様子。

「サフィンが世界征服を企む理由が、よく分からん!」
「スペクターをわざわざ出しているのに、あっさり壊滅しすぎじゃね?」

確かにおっしゃる通りだと思う。だがかつて「007」シリーズで、シナリオが緻密であったことがあっただろうか? 荒唐無稽なプロット、強引すぎるストーリーを、ジェームズ・ボンドという強力なキャラクターと様式美で押し切ってしまうのが、この作品の魅力ではなかったか?

大雑把に言えば、映画は下記の3段階で成り立っている。

第1段階=コンセプト(どのような方針で作品を作るのか、大まかな設計)
第2段階=シナリオ(コンセプトにのっとって開発された脚本)
第3段階=演出(芝居、音楽、撮影、美術など、映画体験としての面白さ)

“伝統”と“革新”のバランスをどう調和させるのか、という点において「第1段階=コンセプト」は素晴らしいし、アクションよりもホラー演出にこだわりを見せている「第3段階=演出」も及第点。この2つがオッケーなら、「第2段階=シナリオ」には少々目をつむってもいいんじゃないか、というのが筆者の意見である。多少の辻褄よりも様式美を優先させることが、このシリーズの至上命題なのだから。

James Bond will return

「スペクター」撮影終了後に「もう一度ジェームズ・ボンドを演じたいか?」というマスコミの質問に対して、ダニエル・クレイグはこう答えている。

I’d rather break this glass and slash my wrists
(グラスを割って、手首を切ったほうがマシだ)

もちろん半分ジョークだろうが、もう半分は本気だったのだろう。「カジノ・ロワイヤル」で歯を2本折り、「スカイフォール」でふくらはぎを断裂し、「スペクター」で膝を傷めた彼の肉体は、とっくの昔に悲鳴をあげていた。齢50を超え、これ以上過酷なアクション・シーンを演じることは困難だと感じていたに違いない。もちろん、ジェームズ・ボンドを演じ続けることのプレッシャーも、我々の想像を遥かに超えるものだったろう。それでも、クレイグは帰ってきてくれた。ボロボロになった体にムチを打って、魂を込めて演じ切ってくれた。

全ての撮影が終了したあと、ダニエル・クレイグはこんなコメントをスタッフに送っている。

「僕らは長年このシリーズに関わってきた。僕の30年の俳優人生の多くを占める。ここにいる大勢が僕と一緒に5作を作り上げた。いろいろ話したいが、これだけは言いたい。「007」シリーズが大好きだし、中でも本作は格別だ」

James Bond will return(ボンドはまた帰ってくる)。映画のラストに刻まれたメッセージを希望の灯にして、我々は新しいボンドがスクリーンの世界に舞い戻ってくるのを待とう。

 

(C)2019 DANJAQ, LLC AND MGM. ALL RIGHTS RESERVED.

※2021年10月7日時点の情報です。

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