今こそ、本当の強さの意味を問う。
名匠クリント・イーストウッドの監督デビュー50周年を飾る最新作、『クライ・マッチョ』が絶賛公開中だ。
原作は、40年以上前に発表されたN・リチャード・ナッシュの同名小説。ロデオの元スターだった老人と少年の交流を通じて、“今必要な本当の強さ”を問うヒューマン・ドラマに仕上がっている。そして過去のイーストウッド映画と比較して鑑賞すれば、感動もさらにマシマシに!
という訳で今回は、『クライ・マッチョ』をネタバレ解説していきましょう。
映画『クライ・マッチョ』あらすじ
ロデオ界の元スターだったマイク・ミロ(クリント・イーストウッド)。落馬事故をきっかけに家族とも別れ、競走馬の調教師をしながら孤独な日々を過ごしていた。そんなある日、彼の元に腐れ縁のハワード・ポーク(ドワイト・ヨアカム)が現れ、メキシコで母親と住んでいる息子ラフォ(エドゥアルド・ミネット)を連れ戻してほしい、と依頼される。マイクは単身メキシコに向かうのだが…。
※以下、映画『クライ・マッチョ』のネタバレを含みます
映画化までに半世紀を要した『クライ・マッチョ』
『クライ・マッチョ』の原作は、N. リチャード・ナッシュが1975年に発表した同名小説。もともとナッシュは舞台劇を中心に脚本家として活躍していたが、本作の原型となるシナリオを書き上げたもののどこにも相手にされず(20世紀フォックスには2度も断られたという)、手っ取り早くお金にするためにノベライズ。やがてこの小説が好評を博し、映画化の話が持ち上がった際には、酷評された元の脚本を一言一句変えずに映画会社に提案した、という逸話も残されている。
だが、実際に映画化されるまでには途方もない時間がかかってしまった。1991年には、ロイ・シャイダーを主役に迎えて製作が始まったものの、なんやかんやで企画が白紙に。2011年には、カリフォルニア州知事の任期を終えたばかりのアーノルド・シュワルツェネッガーを主演に迎えて、再び製作がスタートする予定だったものの、彼の隠し子スキャンダルで撮影が中止してしまう。
実は1988年の時点で、この企画がイーストウッドに打診されたこともあった。だが当時彼は主人公マイク・マイロを演じることに興味を示さず、ロバート・ミッチャムにこの役を提案したという。
「約40年前に初めて私にオファーがあったんだ。ロバート・ミッチャムがいいのでは?と提案したことを覚えているよ。結局、そのままになってしまってね。毎年、あの企画はどうなってしまったんだろう、と思っていたものさ」
(出典元:Parade クリント・イーストウッドへのインタビューより抜粋)
結局、小説が発表されてから46年後(およそ半世紀!!)、原作者N・リチャード・ナッシュが亡くなってから21年後に、晴れて『クライ・マッチョ』は映画化されることとなる。しかも、一番最初に主演をオファーされたクリント・イーストウッドの監督・主演で。なぜ、ここまで時間を要してしまったのか?それに対して、イーストウッドは人を食ったかのようなコメントを残している。
「さあね。私は自分の考えを言語化するのが好きじゃないんだ。心のどこかで、そろそろかなと思っていただけだよ。メキシコシティーに行って子供を誘拐するには、ちょうどいい年齢だと思ったんだ」
(出典元:Parade クリント・イーストウッドへのインタビューより抜粋)
「ちょうどいい年齢」って、アンタ91歳やで!? いずれにせよ、クリント・イーストウッドが出演する時点で、映画はまごうなきイーストウッド作品として屹立してしまう。マイク・ミロと名乗ってはいるけれど、“彼”はかつてカウボーイハットとポンチョに身を包んだ腕利きガンマンであり、ダーティハリーと恐れられた刑事であり、退役した宇宙パイロットであり、老齢の麻薬の運び屋なのだ。
従って『クライ・マッチョ』を心ゆくまで堪能するにあたっては、本作を“点”として観るのではなく、過去のイーストウッド映画との関連性を踏まえた“線”として観ることが望ましいのである。
90歳を超えた老匠が2022年に描く、現代の西部劇
『クライ・マッチョ』は、まるで西部劇のような叙情性をたたえている。もちろん西部劇とは、1860年〜1890年までの西部開拓時代を背景にした映画のことを指すのだから、1970年代後半のメキシコを舞台に描かれる本作は、本来そのジャンルには入らない。しかし、我らがイーストウッドがカウボーイハットを被って颯爽と現れる姿を見せつけられてしまうと、彼を長年追い続けてきたオールド・ファンとしては、この映画を“現代の西部劇”として見入ってしまう。
思えばイーストウッドは、西部劇のスターとしてスクリーンに登場した。1959年から1965年にかけて放送されたドラマ『ローハイド』のロディ・イェーツ役で人気を博した彼は、セルジオ・レオーネ監督に請われてマカロニ・ウェスタン(1960年〜1970年代前半に作られたイタリア製西部劇)に出演。『荒野の用心棒』(1964)、『夕陽のガンマン』(1965)、『続・夕陽のガンマン』(1966)は“ドル箱三部作”と呼ばれ、マカロニ・ウェスタンの代表作として映画史にその名を刻んでいる。
そう、イーストウッドは非アメリカ圏の映画でそのキャリアをスタートさせた、“最後の西部劇スター”なのだ。異邦の地こそが、彼の原点。『クライ・マッチョ』は、まさに原点回帰の作品と言えるだろう。しかも、“マッチョ”はイーストウッドの代名詞だ。
……だが、本当に彼はマッチョなのだろうか?これまでのフィルモグラフィーにおいて、男性優位主義を主張してきたのだろうか?筆者の主観かもしれないが、イーストウッドは徹底して個人主義者(リバタリアン)であり、アウトローであったかもしれないが、いわゆる男らしさ……マチズモ的な男性性を標榜してはいないように思える。
「マッチョは過大評価されすぎだ。人はすべての答えを知った気になるが、老いと共に、無知な自分を知る。気づいた時には手遅れなんだ」
ラスト近くでイーストウッドが語るこのセリフは、マッチョとしての自分自身を戒めた言葉なのではなく、世間からマッチョの代表格として位置づけられてしまった枷(かせ)を、自らの手で外すための言葉なのではないだろうか。
孤独なアウトローからの“転向”
かつて伝説的なロデオ・スターだったイーストウッドは、典型的なカウボーイ・スタイルに身を包んでいる。確かにそれは、アメリカ・イズ・ナンバーワンなマッチョイズムを体現したような出で立ちであり、ラフォからは「アメ公」と呼ばれ続けている。しかし彼はメキシカン・スタイルの衣服に着替え、メキシコの地に安息の地を発見し、メキシコ女性を愛する。そして非英語圏の人々と、時には手話を交えてコミュニケーションをとる。それは、マッチョからの転向なのではなく、アウトローからの転向なのだ。
『クライ・マッチョ』で描かれるのは、共同体に身を寄せる優しき男の物語だ。そこにはペーソスとユーモアが溢れている。これまでのイーストウッド映画が厳しい冬を思わせる狂想曲とするなら、本作はおおらかな春を感じさせる優雅な円舞曲なのだ。
何がいいって、全編にわたって暴力の匂いがしないのがいいじゃないですか。特に、酒浸りの母親リタ(フェルナンダ・ウレホラ)から息子を奪還するように命じられた手下の、なんとオマヌケなことか。最後の戦いも、鶏のマッチョの攻撃によって勝利を収めるというバカ展開(だが、微笑ましい)。全体的に漂うホノボノ感、非暴力感が、なんとも心地いいのである。
イーストウッドがひとたび共同体に身を置くや、あらゆる人間が彼の元にやってきて、おまけにいろんな動物たちも彼の元にやってきて(「俺はドリトル先生かよ!」というセリフもあったりする)、美しいユートピアが築かれる。かつて、何処から現れて何処へ去っていった男は、少年を父親の元へと送り返したあと、再びそのユートピアへと足を踏み入れるのだ。
“神”と折り合いをつけるようになったイーストウッド
もう一つこの作品で特筆すべきは、より身近な存在として“神”の存在がそこはかとなく漂っていることだろう。追っ手から逃れたマイクとラフォは、マリア像が置かれている教会を仮宿にする。信心深いラフォは罰当たりだとマイクを非難するが、彼は「マリア様も許してくれるさ」とにべもない。
これまでのイーストウッド映画においては、どれほど悪がはびこっていようと、神は世界に対して沈黙する存在でしかなかった。彼の代表作『ダーティハリー』(1971)には、教会や十字架など多くのキリスト教的モチーフが登場するが、絶望的な世界で正義を執行するのは、ハリー・キャラハン刑事ただ一人。『ミスティック・リバー』(2003)では、少女の惨殺死体発見シーンと初聖体のシーンを交互に繋ぎ合わせることで、神の不在が強調されていた。
だが次第にイーストウッドは、神とも折り合いをつけるようになる。『スペース カウボーイ』(2000)では、牧師が宇宙パイロットのメンバーとして参加していたし、『グラン・トリノ』(2008)では、忌み嫌っていた教会に足を運んで、若い神父に告解をするシーンが登場したりもする。そして本作では、ラフォの「神様を信じる?」という問いかけに対して、「まあな」と肯定するそぶりを見せるのだ。
イーストウッドがメキシコの地でユートピアを見出したのは、マイクを慕うマルタ(ナタリア・トラヴェン)が教会に食事を差し入れしてくれたことがキッカケだった。今やイーストウッド映画において“神”とは、彼を救済し、癒す存在なのである。
筆者からケヴィン・ファイギさんへの提言
最後に、筆者から一つクレイジーな提言をさせてください。
本作で「多様性への理解」、「非暴力主義」を明確に指し示したイーストウッド。筆者はそこに、現在最強のコンテンツであるMCUとの奇妙な符号を感じてしまう。『エターナルズ』(2021)には人種やジェンダーなど多様性に富んだヒーローたちが登場していたし、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2022)も安易に武力による解決へと物語を向かわせなかった。リベラルが多数派のハリウッドにおいて、イーストウッドは珍しい共和党支持者だが、その視線の先には同じ景色が広がっているのだろう。
だとするなら……いや、何が「だとするなら」なのかよく分かってないけれど……ディズニーは今すぐにでもイーストウッドにMCUのオファーを出すべきではないだろうか。史上最高齢の映画監督、主演俳優として彼を起用すべきではないか。偶然にも、『クライ・マッチョ』の撮影監督を担当しているのは、『キャプテン・マーベル』(2019)や『エターナルズ』など、数多くMCU作品を手がけているベン・デイヴィス氏なのである。ねえ、マーベル・スタジオ社長のケヴィン・ファイギさん。いかがでしょう?いいアイディアだと思いませんか?
もし本当にそんな革命的な作品が作られるのなら、筆者は10回でも20回でも劇場に駆けつけるだろう。きっとMCUなら、そんな奇跡を現実にできるハズだ。
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※2022年1月21日時点の情報です。