【ネタバレ】映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』タイトルに込められた意味とは?旧約聖書との関連性とは?徹底考察

ヒットガールに蹴られたい

竹島ルイ

映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』が描くものとは?タイトルに込められた意味や旧約聖書との関係性などから本作をネタバレありで徹底考察!

ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィーが出演し、『ピアノ・レッスン』(1993)で知られるジェーン・カンピオンが監督を務めた『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。

2021年12月1日からNetflixでストリーミング配信された本作は世界から絶賛を浴び、第94回アカデミー賞でも作品賞の大本命と目されている。

という訳で今回は、話題作『パワー・オブ・ザ・ドッグ』をネタバレ解説していきましょう。

映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』あらすじ

1920年代のモンタナ州。フィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)は、弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)と共に牧場を経営して暮らしていた。そんなある日、ジョージが未亡人のローズ(キルスティン・ダンスト)と結婚。彼女の息子のピーター(コディ・スミット=マクフィー)を連れて、家に越してくることになった。しかしフィルはローズとピーターに対して、敵意をむき出しにする。

※以下、映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のネタバレを含みます。

引退を撤回してまで創り上げた、ジェーン・カンピオンの“復活作”

まずは簡単に、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』が作られるまでの流れをおさらいしておこう。原作は、トーマス・サベージが1967年に発表した同名小説。批評家からは好評を持って迎えられ、ニューヨーク・タイムズからは「サベージは魔法の手を持っている」と激賞された。

これだけの話題作となれば、当然のごとく映像化の話が浮上する。実際に、何人もの人間が入れ替わり立ち代わりで本の権利を獲得し、その度に「いよいよ映画化か?」と期待されながらも、なかなかプロジェクトが進まない状況が続いた。一時期はポール・ニューマンが権利を取得して、主役のフィル・バーバンクを演じる可能性が報じられたこともあった。

ハリウッドでは、何十年もプロジェクトが“寝かされる”ことは決して珍しいことではない。しかし、あまりにも小説が散文的で、映像化には困難な題材だったことは間違いないだろう。企画が宙に浮いたまま長い年月が流れ、ようやく勇気を持って企画を前進させる人物が現れた。ジェーン・カンピオンである。

「原作を読んだ時には、映画を撮ろうとは思っていなかった。ただすばらしくて、物語の魅力にとりつかれたわ」
(Netflix『パワー・オブ・ザ・ドッグ:ジェーン・カンピオンが語る舞台裏』より抜粋)

ジェーン・カンピオンといえば、『ピアノ・レッスン』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールに輝き、その後も『ある貴婦人の肖像』(1996)や『イン・ザ・カット』(2003)など意欲作を撮ってきた映画作家。

だが、『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩』(2009)以降は映画製作から離れ、活動が激減。最近の目立った仕事といえば、TVドラマ『トップ・オブ・ザ・レイク』(2013)を手掛けたくらい。正直筆者もここ最近は彼女の話を聞いたことがなく、“過去の人”という印象になってしまっていた。実はジェーン・カンピオン自身、第一線から離れることを検討していたと言う。

「実は、この映画を撮る前に引退しようと思っていたの。(中略)。でも本を読んで大好きになって、その後もこの作品についてずっと考えていた。撮らなきゃ、と思った」
(ジェーン・カンピオンへのインタビューより抜粋)
https://www.theguardian.com/film/2021/nov/07/jane-campion-the-power-of-the-dog-interview

映画監督作品としては12年ぶりとなる本作は、批評家筋から高い評価を受け、数々の賞レースを席巻。第78回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)、第79回 ゴールデングローブ賞で最優秀作品賞(ドラマ部門)、最優秀監督賞に輝いたほか、第94回アカデミー賞でも監督賞、主演男優賞など最多11部門12ノミネートされている。

本稿執筆時点(2022年2月20日)でその結果はまだ不明だが、いずれにせよ『パワー・オブ・ザ・ドッグ』がジェーン・カンピオンの華麗なる“復活作”となったことは間違いない。

“犬の力”とは、いったい何を指し示すのか?

パワー・オブ・ザ・ドッグ』というタイトルは、旧約聖書の詩篇第22編に由来している。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

(中略)

犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く。

骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。

主よ、あなただけは
わたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ
今すぐにわたしを助けてください。

わたしの魂を剣から救い出し
わたしの身を犬の力から解き放ってください。
(聖書の詩篇第22編より抜粋)

この詩は、イスラエルの王ダビデが詠んだものとされるが、同時にイエス・キリストの死を予言したものとも考えられている。イエスが十字架に釘づけにされ、磔刑に処される直前に神に向かって語りかけた言葉と符合するのだ。そう考えると”犬ども”とは、自分を磔にしているローマ兵たちであり、”犬の力”とは自分を死に至らしめる“悪しき力”と読み解くことができる。

では、この映画における“悪しき力”とは何なのだろうか。それはズバリ、トキシック・マスキュリティ(有害な男性らしさ)である。MeTooムーブメントを通じてジェンダーやフェミニズムの問題が浮き彫りになる中で、今注目されているキーワードだ。「強く、たくましくあるべき」というような旧来的な“男性らしさ”という規範に対して、それに相反する行為を差別する態度である。

例えば映画の冒頭で、ピーターが紙で作った造花を、フィルがロウソクで燃やしてしまうシーンがあるが、まさにこれがトキシック・マスキュリティ。フィルはピーターの繊細な手仕事を“女々しいこと”と決めつけ、侮辱する。ローズの店でピアノを楽しむ客たちを恫喝したり、仲間と一緒に馬でピーターをけしかけたりする男性性の誇示も、それに含まれるだろう(風呂には入らないという謎のモットーも同様だ)。

だがその“男性らしさ”とは、一体どのようにして生まれ、根付き、はびこるのだろうか?『パワー・オブ・ザ・ドッグ』が提示するのは、それは社会によって強制的に刷り込みされ、拡散されていくという考え方だ。まるで伝染病のように。

そしてフィルもまた、トキシック・マスキュリティの犠牲者なのである。

トキシック・マスキュリティの犠牲者、フィル

粗暴で威圧的なフィルと、優しく寛容的なジョージ。一見すると、学のない兄とインテリの弟という単純な構図に見えるが、実はフィルはイェール大学で古典を学んだエリートで、大学を中退したジョージよりもはるかに教養があることが分かってくる。

ローズの店でフィルが「愛だよな?」とフランス語で問いかけると、ジョージは「外国語はわからん」と返答しているし、知事夫妻が来る夕食会にフィルが不在だと、ロクな会話ができない。ジョージがローズの下手なピアノに耳を傾けるだけの“聴き専”なのに対し、フィルはバンジョーを自在に操る優れた楽器奏者でもある。

そして彼は、今は亡きブロンコ・ヘンリーに心から崇拝の念を抱き、友情以上の感情を抱いていた。だが1920年代のモンタナ州という、男性優位主義の世界の中で生きるしかなかったフィルは、同性愛者としての自分をひた隠し、荒々しい男たちに囲まれて埃にまみれる日々を送る。彼が唯一自分をさらけ出せるのは、ヘンリーの名前が入ったスカーフを取り出して、自慰行為に耽ることだけなのだ。

厳格なまでに社会に順応することを強制され、個人を抑圧されること。鬱積した感情が爆発し、欲望や憧れが顕在化すること。それはまさに、『ピアノ・レッスン』をはじめこれまでジェーン・カンピオンが描いてきたテーマそのものだ。過度な男性性という新しい物語を希求しつつも、その手つきは過去作と同工異曲なのである(本作でピアノが象徴的に使われていることは、特に『ピアノ・レッスン』との意識的な共通性が認められる)。彼女のコメントを引用してみよう。

「MeTooのムーブメントが、私の決断を後押ししてくれた。このような題材を探求するために、全く異なる空間を切り開くような強力な力を与えてくれた。彼女たち…主に若い女性たちが、男らしさに関する“タマネギの層”をたくさん剥がしてくれたことで、私のような老監督が、過度な男性性に関する物語を探求する余地が生まれたの」
(ジェーン・カンピオンへのインタビューより抜粋)
https://www.theguardian.com/film/2021/nov/07/jane-campion-the-power-of-the-dog-interview

なお、イスラエルの王ダビデは、親友ヨナタンと強い友情で結ばれていたが、研究者の中には「二人は同性愛的な関係で結ばれていた」と考える者もいる。本作のタイトルが、ダビデが詠んだ旧約聖書の詩篇第22編から採られているのは、同性愛者というモチーフもあるのかもしれない。

異邦人監督による、男性優位主義という神話の破壊

フィルは、長い間自分を偽って生きてきた。誰かにカミングアウトすることもできず、抑圧された社会システムの中で生き抜いてきた。そんな時に、彼はピーターと出会う。彼は、農場から見える山々の風景に「吠える犬」を見出し、フィルを驚愕させる。それを指摘できたのは、ブロンコ・ヘンリーしかいなかったからだ。この瞬間からフィルはピーターに運命的なものを感じ、同志的な振る舞いをする。

興味深いのは、フィルに対して怯えた表情を浮かべるしかなかったピーターが、彼が同性愛者と知るや堂々とした態度に激変すること(周りからカマ野郎と罵られても、彼は断固たる足取りで彼らの横を通り過ぎていく)。おそらくピーターはフィルの弱点につけこんで、精神的優位に立てると踏んだのだろう。そして見事その目論見は成功する。

ある意味で本作は、“支配の物語”と言える。マッチョイズムとは、その支配力を誇示すること。圧倒的なカリスマで荒くれ男たちを率いてきたフィルは、解剖学者のような冷徹さで接するピーターによって心身ともに支配され、やがて彼の謀略によって命を落とす。

旧約聖書には、羊飼いの少年だったダビデが巨人ゴリアテを投石器から放った石で昏倒させ、剣で首をはねたという逸話が残されている。屈強な男性に少年が打ち勝ったという「ダビデ − ゴリアテ」の構図は、そのまま「ピーター − フィル」という構図に置き換えることもできるだろう。トキシック・マスキュリティという名の伝染病の拡散が、炭疽症という伝染病によって断ち切られたのだ。

かくしてニュージーランド出身の異邦人監督ジェーン・カンピオンは、アメリカにはびこるマッチョイズム、男性優位主義という神話を破壊してみせる。

「このビジネスにおける毒性を一掃してくれたことは喜ばしい。そして今、私たちは『プロミシング・ヤング・ウーマン』のような映画を手に入れることができた。これは他の何よりも、この世界に存在する素晴らしい挑発です」
(ジェーン・カンピオンへのインタビューより抜粋)
https://www.theguardian.com/film/2021/nov/07/jane-campion-the-power-of-the-dog-interview

『プロミシング・ヤング・ウーマン』が、男性優位社会というシステムの加害性を摘発した映画とするなら、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はそのシステムを根底から崩壊する。しかもマッチョイズムの代名詞とでもいうべき、西部劇の形式を用いて。それは極めて画期的なことだ。

本作は、極めて現代的なテーマを神経症的に研ぎ澄まされた筆致で描く、指折りの大傑作である。

※2022年2月26日時点の情報です。

記事をシェア

公式アカウントをフォロー

  • RSS