いま世界から最も注目を集めるフィルムメーカー濱口竜介が、村上春樹の原作をもとに脚本・監督を務めた『ドライブ・マイ・カー』。第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞ほか4冠に輝いたのをはじめ、世界各国の映画祭を席巻。第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネートされている。
という訳で今回は、間違いなく2021年を代表する一本『ドライブ・マイ・カー』についてネタバレ解説していきましょう。
映画『ドライブ・マイ・カー』あらすじ
俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)は、妻の音(霧島れいか)と幸せな日々を過ごしていた。しかし、突然の病気で妻は帰らぬ人に。心に空白を抱えたまま2年が過ぎ、家福は広島で開催される演劇祭の演出することになった。やがて彼は、寡黙な専属ドライバー渡利みさき(三浦透子)との時間を通して、少しずつ魂が救済されていく……。
※以下、映画『ドライブ・マイ・カー』のネタバレを含みます
ハルキ・ムラカミ原作であることの強み
筆者はこれまで、それなりの数の映画考察記事を書いてきたが、今回のFILMAGA編集部からの依頼には正直アセった。お題は、「『ドライブ・マイ・カー』はなぜ高評価を集めるのか?」。いやいや、そんなの筆者のような超弱小映画ライターには皆目見当がつきませんから!!!
確かに『ドライブ・マイ・カー』は日本のみならず、世界の映画祭で賞を獲りに獲りまくっている。
・第74回カンヌ国際映画祭 脚本賞
・第79回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞
・第87回ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞
・ボストン映画批評家協会賞 作品賞、最優秀男優賞、監督賞、脚本賞
・第56回全米批評家協会賞 作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞
この稿執筆時点(2022年2月25日)ではまだ結果は不明だが、第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネート。どちらかといえばアート系にカテゴライズされるであろう本作が、メインストリームど真ん中のアカデミー賞で高く評価されていることは、単純に物凄いことだと思う。
オバマ元大統領がTwitterで投稿した「2021年お気に入りの映画14本」の中に、『ウエスト・サイド・ストーリー』や『パワー・オブ・ザ・ドッグ』、『最後の決闘裁判』などの作品に交じって、『ドライブ・マイ・カー』が選出されたことも記憶に新しい。
ではなぜ、『ドライブ・マイ・カー』は世界的に高い評価を受けたのか?
まず思いつくのは、原作が村上春樹ということだ。欧米で、ハルキ・ムラカミが絶大な人気を誇っていることはよく知られている。単純に彼のネームバリューが、本作の評価を後押ししたことは容易に想像できることだ。
しかも、F・スコット・フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラーなど、欧米の作家を愛読してきた彼の小説は、いわゆる世界共通文化としての「アメリカ」が中心に置かれている。舞台が日本であっても、作中の登場人物はスパゲティやハンバーガーを食べ、クラシックやジャズを聴く。日本というドメスティックな風土に依存していない分だけ、(ストーリー自体は難解と言われることが多いものの)ムラカミ・ワールドへの入り口は広く開かれているのである。
そうなると、当然次のような疑問が浮かんでくる。「村上春樹原作の映画作品は、どれも世界市場で大きな評価を受けたのか?」と。村上自身が自作の映画化に積極的ではないこともあって、その人気とはうらはらに、映像化作品は少ない。主だった作品を挙げるとすると、こんなところか。
『風の歌を聴け』(1981年)
監督/大森一樹 出演/小林薫、真行寺君枝、巻上公一
『パン屋襲撃』(1982年)
監督:山川直人 出演:室井滋
『トニー滝谷』(2004年)
監督/市川準 出演/イッセー尾形、宮沢りえ
『神の子どもたちはみな踊る』(2008年)
監督/ロバート・ログヴァル 出演/ジェイソン・リュウ、ジョアン・チェン
『ノルウェイの森』(2010年)
監督/トラン・アン・ユン 出演/松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子
『ハナレイ・ベイ』(2018年)
監督/松永大司 出演/吉田羊、佐野玲於、村上虹郎
『バーニング 劇場版』(2018年)
監督/イ・チャンドン 出演/ユ・アイン、スティーヴン・ユァン
確かに『バーニング 劇場版』は、第71回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを争うほどの評価を得たが、筆者が注目したいのは『ノルウェイの森』である。監督を務めたのが『青いパパイヤの香り』(1993)や『夏至』(2000)など、繊細かつ叙情的な名作を上梓してきたトラン・アン・ユンだったにも関わらず、当時その評価は決して芳しいものではなかった。
この両作を比較することで(トラン・アン・ユンには大変申し訳ないけれど)、逆に『ドライブ・マイ・カー』の高評価の理由が見えてくるかもしれない。どっちもビートルズ・ナンバーをタイトルに冠した作品だし。
近代文学が紡いできた“死とセックス”
いきなり極端なことを言ってしまうようだが、近代文学というものは、“死とセックス”を足がかりにして礎を固めていったと言える。村上春樹自身、心理学者の河合隼雄との対談の中で、こんなコメントを残している。
「ぼくは、『風の歌を聴け』という最初の小説を書いたときは、死とセックスに関しては書くまいというひとつのテーゼみたいなものを立てたのです。その背景には、近代の文学がセックスと死に対して、論理的に関わってきたということがあるのです」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』より抜粋)
確かに『風の歌を聴け』には、一切そのような描写がない。「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ」という一節が書かれているくらいだ。だがやがて、村上春樹は忌避したはずの“死とセックス”を意図的にモチーフとして組み込み、新たな文学的地平を拓こうとした。
「結局、でも、行き着く先はそれしかなかったというか、『ノルウェイの森』を十年後に書いたのですが、あの小説の中ではセックスと死しか書いていないのです」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』より抜粋)
『ノルウェイの森』は爆発的なヒットを飛ばし、彼の代表作として世間に認知されることになる。アウトラインを語ってしまえば、とにかく手当たり次第に女と寝まくる男がいて、その周りで知人・友人がバタバタと死んでいくという、かなりしょーもない話。しかしこの“死とセックス”しかない“ミもフタもなさ”こそが、ブンガクとしての深度と純度を高めたのである。
さてこれを映像で語るとなると、いささか困ったことになる。“死とセックス”しかない“ミもフタもなさ”が、画と色と音を従えて血肉化するやいなや、単なる「ハレンチなドラマ」にしか見えてこないのだ。勘違いして欲しくないのだが、筆者はこの映画のクオリティは非常に高いと思っている。ノスタルジーとモダンが横溢する60年代を再現したセット、名撮影監督リー・ピンビンによる浮遊感溢れるカメラ、鬼才ジョニー・グリーンウッドによる残酷なまでに静謐な音楽、全てが最高の仕事だ。
逆にいえば、あまりにもビジュアルとサウンドの強度が高すぎるがゆえに、圧倒的な文章力によって裏打ちされていた“村上春樹的な幻想世界”が瓦解してしまったのかもしれない。村上文学の映像化の困難さを、『ノルウェイの森』は残酷にも暴き出してしまった。
多言語が横溢することで生成される、テキストの無効化
優れた映像詩人であるトラン・アン・ユンは、映画に必要最低限のセリフしか持ち込ませなかった。登場人物の感情はセリフではなく行動によって示唆され、映像的に補完される。その方法論は映画監督として至極真っ当なことだ。
それに比べて、濱口竜介監督ははるかに“テキストの人”。『親密さ』(2011年)にせよ、『ハッピーアワー』(2015年)にせよ、『偶然と想像』(2021年)にせよ、彼の作品では膨大なセリフの積み重ねによって、物語の輪郭を形づくっていく。
例えば『ドライブ・マイ・カー』では、初っ端からセックス後の夫婦の会話から始まる。マジックアワーを狙って撮影されたであろうこの場面では、二人の姿はほとんど闇に包まれ、ほとんど“のっぺらぼう”のようだ。我々観客は、映像から情報を補完するのではなく、セリフ…テキストとしての“音”に集中して情報を拾い集めるしかない。
妻の音が語るのは、「山賀という同級生の自宅に、毎日のように忍び込む女子高生」という、変態チックなお話。性を映像的に描くのではなくテキストで語らせるという、トラン・アン・ユンとは真逆のアプローチだ。
だが、濱口竜介は「テキストが映像よりも優れている」と訴えかけたい訳ではないだろう。この映画では、日本語だけではなく中国語、韓国語、英語、そして手話までが登場し、意思疎通は常に一方通行で困難を極めている。セリフが横溢する会話劇の体裁をとっている『ドライブ・マイ・カー』が示すものは、言葉の有効性ではなく、その無効性なのだ。
「運転すること」が指し示すものとは?
また、性行為を直裁に描いた『ノルウェイの森』とは異なり、『ドライブ・マイ・カー』においてセックスは「人と人とを繋ぐコミュニケーション」という暗喩として使われているように思える。家福と高槻(岡田将生)がバーで会話するシーンのセリフを抜粋してみよう。
家福「君はああいうことはよくあるのか?」
高槻「ああいうことって?」
家福「身元もよく知らない女と」
高槻「え?ないですか?」
家福「ない」
高槻「いや、家福さんに近づいてくる人だって多いはずです」
家福「そんなのは拒めば済む話だ」
高槻「別に僕も、誰でもって訳じゃないです。フィーリングが合って、もっと知りたいって思ったら。ないですか?」
家福「もっと知る方法が、セックスじゃなくてもいいだろう」
下世話なセックス話に聞こえてしまうが、端的に言えば二人が会話しているのは、普遍的なコミュニケーション論だ。高槻は、英語も北京語も喋れないくせにジャニス・チャン(ソニア・ユアン)とベッドを共にしてしまう。一方家福は、英語を喋れるにも関わらず容易に人を寄せ付けず、内に閉じこもっている。
高槻=非言語的な振る舞いによって「言葉の壁」を超え、他者とコミュニケーションを図る男
家福=言語的な振る舞いに終始することで「言葉の壁」を超えることができず、他者とコミュニケーションを図ることができない男
家福は、愛車の真っ赤なサーブ900を運転しながら、今は亡き妻・音の声を聞いてセリフの練習をしているが、これも彼が「言語的な振る舞いに終始する」男であることの証明だろう。サーブ900は家福を外界から遮断する装置であり、音の羊水に包まれたマザーシップ=母体のような役割を果たしている(何だかエヴァンゲリオンみたいな話だけど)。つまり「運転すること(車の中にとどまること)」は、コミュニケーション不全の暗喩。彼は外界と接触せず、いつまでも羊水に浸っていたいのだ。そう考えれば、みさきが運転することに渋ったのも至極当然。
ナンダカンダで、家福はみさきが愛車を運転させることに同意するが、それは彼にとって大きな前進だったはず。最後に車自体をみさきに譲り渡したのは、彼の魂が救済されたことと同時に、「言葉の壁」を超えたことを高らかに宣言するものだ。
2つの戯曲に仮託された、実存的な問い
村上春樹が言うところの「近代の文学がセックスと死に対して、論理的に関わってきた」とは、詰まるところ「生きるとは何ぞや?」と言う実存的な問いでもある。自分でも書くのが恥ずかしいくらいに手垢のついたテーマだけれども、濱口竜介は果敢にそれに挑戦している。
象徴的なのは、劇中で2つの舞台が上演されていること。まずひとつは、サミュエル・ベケットが1952年に発表した『ゴドーを待ちながら』。待てど暮らせど姿を現さないゴドー(ゴドー=ゴッド、神という説もある)を、2人の浮浪者がひたすら待ち続けるという、シュールすぎる戯曲。共同脚本を担当した大江崇允は、人生の不条理を描いたこの作品を「一番好きな演劇作品」だと公言している。
もうひとつは、アントン・チェーホフが1897年に発表した『ワーニャ叔父さん』。年老いたセレブリャコフ教授が、若く美しい後妻を連れてきたことに端を発する悲喜劇だ。登場人物が失意と絶望に陥りながらも、“死”ではなく“生”を選択する展開に、チェーホフ的な人生哲学が反映されている。
『ゴドーを待ちながら』&『ワーニャ叔父さん』を、「生きるとは何ぞや?」と言う実存的な問いの象徴として取り上げていることは、欧米で馴染みの深い題材だけに理解されやすいだろう。
…と、長々と駄説を唱えさせていただきましたが、改めて最初に問いに立ち戻ろう。なぜ、『ドライブ・マイ・カー』は世界的に高い評価を受けたのか?
1. “死とセックス”を映像ではなく、テキストとして描いたこと。ただし、この映画において言葉とは無効化されるものである。
2. コミュニケーション不全を「運転する」という行為に暗喩させることで、テーマを視覚的に理解させたこと。
3. 欧米に馴染み深い演劇を題材にすることで、実存的な問いを平易に理解させたこと。
異論反論もあることでしょうが、これが筆者にできる考察の限界であります。以上!
※2022年3月7日時点の情報です。