あと10年しか生きられないと知ったらあなたはどうしますか?
そんなことを問いかける新作映画『余命10年』は、2017年に逝去した小説家・小坂流加の自信を投影した原作を、より彼女自身の物語に近づけて描いています。
キャスト・スタッフ共に豪華な面々が終結した本作の魅力を、原作との違いも踏まえて解説します。
映画『余命10年』あらすじ
高林茉莉(小松菜奈)は、20歳の時に数万人に一人しか発症しない難病にかかります。
その病気を発症してから10年以上生きた人間はごくわずか。
彼女は病気を少しでも遅らせるために、食生活も気を遣い、薬をいくつも飲み、社会人として働くこともできず、さまざまな制限を受けながら生き、それでもじわじわと死に向かっていました。
そんななか、茉莉は参加した中学時代の同窓会で、真部和人(坂口健太郎)と再会します。
会社経営をする両親のもとを離れて上京したもののどん詰まりの日々を送っていた彼は、同窓会で茉莉と連絡先を交換するも、それからしばらくして自殺未遂をしてしまいました。
目標もなく「生きる意味が分からなくなった」と語る和人に、茉莉は「それってずるい」と憤り、和人は再び自分の人生を見つめ直すようになります。
ふたりの共通の友人・タケル(山田裕貴)の紹介で、和人は寡黙な梶原玄(リリー・フランキー)の営む居酒屋でバイトを始め、茉莉は昔からの親友・沙苗(奈緒)の働く出版社でコラムライターとして在宅で執筆を始めました。
そして、茉莉と和人はだんだんと惹かれあっていき恋人になるのだが……。
※以下、『余命10年』ネタバレを含みます。
映画『余命10年』の原作との改変の意味
まず、映画鑑賞前に原作を読んだ身としては、映画『余命10年』は、原作「余命10年」とは大きく違う点もあります。しかし、原作、映画共に素晴らしい作品であり、どちらも触れるべき、触れてどちらの良さも知ってほしいと断言できます。
先にいうと、映画が今回原作と大きく違う理由に、原作者・小坂流加さんの実人生に大きく寄せているから、という点が挙げられます。
映画が終わって、エンドロールの一番最初に「小坂流加に捧ぐ」という言葉が出ることからもそれは明らかでしょう。
小坂さんは難病・原発性肺高血圧症を大学生時代に発症し、2007年に「余命10年」を書き上げ、文庫版にする際に自身の闘病生活を踏まえた大幅な加筆を加えて、その後2017年に38歳の若さで亡くなっています。
作中の茉莉よりも長く生きてはいますが、彼女もこれから人生が始まろうとしていた20代前半の時期に病気によって自分の死期を悟り、この世に生きた証を残すように小説を残したのです。
これまで『新聞記者』や『ヤクザと家族 The Family』などの社会派作品が多かった藤井道人監督は、「余命モノ」に「あらかじめゴールが決まっている」ような疑問を持っていて、抵抗があったと語っていますが、それを超えて本作に興味を持ったのは、この小坂さんが実際に死期に迫って書いた「加筆部分」の影響が大きかったようです。
そして、藤井監督も、藤井組のスタッフも、この鬼気迫るような闘病生活の描写に心を打たれ、今回の映画化の「肝」としてとらえています。
私もそうですが、読んだ人は死期に面した人が何を考えるのか、死がどのように近づいてくるのか、見たことないレベルの筆致で描かれており、原作最大の見どころで心に残る部分と感じるでしょう。
それ以外にも、藤井監督は実際に小坂さんの家族と会ったことで「恋愛面だけでなく、家族や友人たちとしっかり向き合った茉莉の10年を描きたいと思った」と語っています。
そして、映画版の『余命10年』は、原作とは大きく改変された物語となりました。
そこには藤井監督が語るように「単に小説を映画化するのではなく、小坂さんが生きた証を映画のなかに刻む、ドキュメンタリーとフィクションの融合みたいなところ」に挑戦する意図があったのです。
改変されたポイントを比較
具体的にどのような点が改変されたのか、いくつか例を挙げます。
茉莉がアニメやコスプレを愛し、マンガ執筆に取り組んでいた原作とは違い、映画では彼女は文才を持ち、ライターとして働き、最終的には自分の死までの経験をまとめた「余命10年」をこの世に遺すという設定変更(原作では数巻のコミックスを出版)は、茉莉=小坂さんという構図をより強めています。
また、和人が原作とは違い、本当に夢も希望もなく自殺未遂をしたところから、茉莉の言葉によって生きる力を取り戻していくという展開は、小坂さんが小説に遺した「言葉」によって多くの人を救う役割を果たしたこととも重なります。
より直接的に茉莉が、一人の人間の人生に大きな役割を残したという改変で、小坂さんへのリスペクトも感じました。
そのほかにも和人に関しては大きく設定変更があり、原作では茶道の家元を継ぐ立場でありながら、自分の進む道を決めきれずにいるというキャラだったのに対し、映画では社長の息子ではあるものの、その会社を継ぐことはなく、リリー・フランキー演じる玄さんのもとで学んで自分の居酒屋を開く道に進んでいきます。
キャラクターの設定は改変されていますが、原作に「子犬のような雰囲気がある」「その目で見つめられると断れなくなる」と書かれているような可愛さ、吸引力のある雰囲気は坂口健太郎が持ち前の柔らかさ、儚さで体現していました。
また、茉莉の家族に関しての描写に厚みが増しているのは、やはり名優たちの実力ゆえでしょう。
2人称視点で書かれた小説には、茉莉と和人以外の具体的な心情説明はなく、その周囲が死にゆくヒロインのことをどう思っていたのかは詳細にはわかりません。
しかし、映画ではまだ序盤に、同窓会に参加するためにかつて住んだ町を訪れ喜ぶ茉莉を見つめる父・明久(松重豊)の表情だけで泣けてしまいます。
原作にはなかった、姉・桔梗(黒木華)と母・百合子(原日出子)に新しい医療を勧められて、茉莉が「(自分が死んでしまうことを)諦めてよ」ときっぱり言ってしまうシビアなシーンのそれぞれの繊細なリアクションの演技も印象的です。また、終盤の茉莉が母に「やっぱり死にたくない」と吐露する場面は、悲しいながらも無理をしていた主人公にとっての救いの場面でもあり、和人と別れてから最後の闘病生活に移行する前の重要な山場にもなっていて、よりストーリーに共感しやすくなっていました。
そして、原作といちばん大きく違う部分ではないかと思うのが、最後に和人と茉莉が会うのが生前か死後か、という点です。
原作では茉莉は最後の3年が残された状態で和人のプロポーズを断り、「死の恐怖」を感じたくないから、和人の邪魔になりたくないから、自分が弱る姿を見せて苦しめたくないから、と1人で死と向き合い闘病生活を続けます。原作では家元後継者の和人が「自分が独り立ちできそうだ」と茉莉に告げに来るのは、彼女の葬式の場面でした。
一方、映画では死の直前、半分昏睡状態とはいえ、和人は最後の最後に生きている茉莉に話しかけにやってきます。
小坂さんは実際に和人のような男性と最後に恋をした……というわけではないようですが、小説にしてみたかった恋を綴ったのでしょう。そして、フィクションの恋ながら、自分を投影したヒロインが最後の3年は愛する人には会わないまま死んでいく……というシビアな目線を入れているのは、すごいことだと思います。
加筆された闘病生活の部分でも、和人に会いたい思いや寂しさを吐露しつつも、会わない選択をした自分の判断はこれでよかったと最後まで信じ続ける茉莉の姿が印象に残ります。
映画版はその茉莉および小坂さんの決断を尊重しつつ、それでも最後には茉莉を和人に会わせています。さらに和人は、玄さんの店から独立し、自分の居酒屋を開いており、原作以上にしっかりとこれからの人生を見据え独り立ちした男として描かれていました。
茉莉の別れの決断のおかげで和人が成長できたことを強調しつつ、藤井監督ら制作陣が「でも会わせてあげたい」と思って追加したのではないか、そんなことを考えてしまいます。
まとめ
『余命10年』順番にはこだわらず、原作と映画の両方に触れてみてはいかがでしょうか?
当事者・小坂さんの「自分が生きた証」が詰め込まれつつ、一歩引いて自分の死を見つめている目線の原作も心に残りますが、映画版は小坂さんの死後に制作陣がリスペクトを払いつつ、「こんな風に生きてほしかった」という目線の改変も込められた作品になっていました。
キャストもスタッフも1年という期間かけ撮影し、小坂さんの人生に思いをはせて作られた、渾身の一作です。
(C)2022映画「余命10年」製作委員会
※2022年7月22日時点の情報です。