【ネタバレ】映画『ボーはおそれている』ラストの意味は?隠されたヒントとは?父親の正体など徹底考察

ポップカルチャー系ライター

竹島ルイ

アリ・アスター監督がホアキン・フェニックスとタッグを組んだ映画『ボーはおそれている』。ラストシーンの意味や、父親の正体などを徹底考察します!

『ヘレディタリー/継承』(18)、『ミッドサマー』(19)で世界中を恐怖のどん底に叩き落としたアリ・アスター監督の新作『ボーはおそれている』(23)が、2024年2月16日(金)より公開中だ。

今作では、『ジョーカー』(19)や『ナポレオン』(23)などで知られる“怪優”ホアキン・フェニックスと初タッグ。最狂コンビの手によって、シュールレアリスティックな悪夢が綴られる。

という訳で今回は、話題作『ボーはおそれている』についてネタバレ解説していきましょう。

映画『ボーはおそれている』(2023)あらすじ

日常のささいなことでも不安になる怖がりの男・ボーはある日、さっきまで電話で話してた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。これは現実か? それとも妄想、悪夢なのか? 次々に奇妙で予想外の出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしかボーと世界を徹底的にのみこむ壮大な物語へと変貌していく。

※以下、映画『ボーはおそれている』のネタバレを含みます

オープニングに仕掛けられたヒント。母親によってコントロールされた世界

今このネタバレ記事を読んでいるということは、あなたはすでに『ボーはおそれている』を鑑賞しているはずだろう(もしまだ未見ということであれば、可及的速やかに劇場に足を運んで頂きたい)。そしてあまりにイミフでチンプンカンプンでトンチンカンなストーリーゆえに、あなたの頭の中はパニックになっていることだろう。当然のことだ。筆者も合計3回この映画を鑑賞しているが、いまだに何が何だかさっぱり分からない。とりあえず独断と偏見による考察で、筆者なりにこの作品を紐解いていこうと思う。

『ボーはおそれている』の制作にあたって、アリ・アスターはこんなコメントを残している。

「10年間、この映画のことを考えてきた。自分たちがこの映画を作っていることが信じられない気持ちがある。壮大な映画だよ。あらゆる細部にディテールが含まれている(Every detail has a detail inside of it.)。10歳の子どもに抗うつ薬をたっぷり飲ませて買い物に行かせたような映画。観客が、ひとつの人生、ひとりの人間を体験しているように感じられる映画を作りたかったんだ。

素晴らしいものを届けることに、大きな責任を感じている。私は人生を経験した、あるいは人を通してさえ感じられる映画を作りたかったんだ。まるで、ユダヤ人版『指輪物語』のように。とはいえ、主人公は母親の家に行くだけなんだけどね。観客には負け犬になる体験をしてほしい」
引用元:https://ew.com/movies/beau-is-afraid-director-lord-of-the-rings-joaquin-phoenix-ari-aster/

なんとも意味不明なコメントだが、アリ・スターが『指輪物語』を引用していることは非常に興味深い。なぜなら、J・R・R・トールキンによるこのファンタジー小説は、“ゆきて帰りし物語”……すなわち、故郷へと戻っていく物語だからだ。『ボーはおそれている』もまた、ボー(ホアキン・フェニックス)が故郷に戻るまでの旅路を描いた作品といえる。


(c)WBEI. TM & (c)THE SAUL ZAENTZ CO.

ボーが暮らしているのは、腐乱死体が道端に転がっていたり、ひっきりなしに銃声が聞こえたり、ヤク中の人々がたむろしているような、狂気のバイオレンス・シティ。想像しうる最低・最悪の場所だ。そこから何とか抜け出し、母親という絶対的セーフティ・ゾーンへと向かう過程が、179分の長尺で描かれている。

実はオープニング・クレジットから、アリ・アスターは周到な仕掛けを施している。製作会社A24とACCESS ENTERTAINMENTのロゴのあとに、“MW”という謎のロゴが映し出されるのだ。その正体は、ボーの母親モナ・ワッサーマン(パティ・ルポーン)がCEOを務める架空の企業、MW Industries。つまり、全ては母親によってコントロールされた物語であることが、冒頭から明示されている。

主人公がリアリティ番組の巨大セットで生活する『トゥルーマン・ショー』(98)と同じように、ボーもまた母親によって創造された世界に閉じ込められていたのだ。

母親が支配し、息子が支配される物語。ものすごく大雑把にいうと、『ボーはおそれている』はそのような構造で作られている。

胎内回帰の物語

本作の重要なキーワードのひとつが、“水”。セラピスト(スティーヴン・ヘンダーソン)から渡される新薬は「必ず水と一緒に飲むこと」と念を押され、その水を求めてボーは命からがらデリに駆け込む。彼にとって“水”とは、生命維持・精神安定のために必要不可欠なもの。だがその一方で、バスタブで溺れそうになったり、プールに死体が浮かんでいたり、大洪水で家族を失う悪夢を見たりもしている。一定のしきい値を超えると、“水”は彼に牙を剥いて襲いかかる。

『ボーはおそれている』を「母親の許へと戻るまでの物語」と規定するならば、それはすなわち「胎内回帰の物語」であり、そう考えると“水”は羊水のメタファーとも考えられる。ボーは彼女の胎内のなかで羊水に身を浸し続ける、永遠の赤ん坊。彼が暮らすマッド・シティは、「いつまでも息子を自分のなかに押し留めておきたい」と願う母親が作り出した世界であると同時に、胎内の外へと排出されてしまった赤ん坊の、不安と恐怖によって生み出されてしまった世界なのかもしれない。

ボーは、母親からの抑圧を感じつつも、完全に母離れできない童貞中年。セラピストが「母親を殺したいと考えたことはないか?」という質問をすると、彼は即座に否定している。母殺し=母離れできていないことを、端的に示しているのだろう。彼は「オーガズムによる心雑音が原因で、父親は亡くなった」ことを母親から伝えられ、セックスの恐怖を植え付けられてしまっていた(ラストで、それは嘘だったことが明かされるのだが)。ボーは、他の女性を知らない、純粋無垢な存在のまま。母親は極めて巧妙なやり方で、彼を依存的な幼児のままにすることに成功している。

おそらくボー自身は、自分の歪みに気がついていない。本作はほぼ全てのシーンがボーの視点で描かれているが、世界に対する認識の歪みによって、映像そのものがシュールレアリスティックな悪夢と化している。印象的なのは、妙に歪んだホアキン・フェニクッスのバストショットが描かれたポスター。それは、屈折した精神の無自覚性を表象しているようだ。この映画は、歪んだ心性によるサイコロジカル・オデッセイともいえる。

ちなみにボーの名字はワッサーマン(Wasserman)で、神話に登場する“水”の妖精と同じ名前。そして母親のモナが住んでいる町は、綴りが非常に近いワッサートン(Wasserton)だ。

父親の正体

怪我をしたボーを介抱してくれたものの、次第に狂った行動を見せ始めるグレース(エイミー・ライアン)とロジャー(ネイサン・レイン)。ボーは彼らの家から飛び出し、森の奥へと逃げこむ。やがて彼は若い妊婦と出会い、不思議なコミューンへと連れて行かれる。そこで目撃するのは、まるでボー自身の人生を舞台にしたかのような、不思議な芝居だ。

ここで映画はさらにおかしな様相を帯び始め、不穏なアニメーション・パートに突入する。このシーンの制作には、日本でも去年話題を呼んだストップモーション・アニメ映画『オオカミの家』(18)の、クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャが参加。最初からだいぶ訳のわからない映画だが、さらにギアが一段上がって、混迷と混乱の狂想曲が紡がれる。


(c) Diluvio & Globo Rojo Films, 2018

お伽話のように語られるアニメーション・パートで、ボーは三人の息子の父親になっている。彼は「自分はセックスをしたことがない」と打ち明け、息子たちは「ではなぜ僕たちは生まれたの?」と当然の問いかけをする。もちろん、彼は答えられない。このパートで描かれるのは、女性=母親が介在しない、“もう一つのボーの物語”。母親からの支配から抜け出すことによって、ひょっとしたら実現できていたかもしれない、パラレル・ワールドだ。

そのお伽話と並行モンタージュさせながら描かれるのが、少年時代のボーが母親とクルーズ旅行に出かけ、エレインという少女に出会う“記憶の物語”。彼女は彼にキスをして、ポラロイド写真を渡す。明らかにモナにとって彼女の存在は、息子をコントロールするにあたって厄介な闖入者だ。やがてMW Industriesに入社したエレインは、十数年ぶりにボーと再会し、セックスに及ぶ。そして彫刻のように動かなくなり、腹上死してしまう。

エレインをあえて自分の会社に引き入れたのは、ボーから遠ざけるために仕組んだモナの計画だったのではないか。だがエレインはボーと契りを交わしてしまい、その罰として死ななければならなかった。息子の愛情は全て母親が享受すべきものだからだ。母が子に抱く愛情が、この映画ではおそろしく支配的なものとして表出している。

そしておそらくモナは、セックスという行為そのものよりも、女性だけが出産という苦しみを味わなければならない、ある種の呪いのようなものも感じている。それはボーが生まれてくるオープニング・シーンにも顕著だ。母親のPOV(主観視点)ショットで描かれたこのシークエンスからは、子供を出産した喜びは全く伝わってこない。不安と苛立ち。恐怖。その鬱屈とした想いは、息子だけでなく、ボーの父親にも向けられる。

モナが天井裏に監禁していた父親は、まるで巨大な男性器のような姿をした怪物だった。おそらく、それは真実なのだろう。モナにとって彼は、妊娠という苦しみを与えた生殖器のような存在にすぎない。ボーが邂逅した父親は、母親の怨念が具現化されたものなのだ。

最高のハッピーエンド

『ヘレディタリー/継承』といい、『ミッドサマー』といい、一貫してアリ・アスターは家族という呪いを描いてきた。

『ヘレディタリー/継承』は、アリ・アスター自身が「自分の家族にある不幸が起こり、その経験を踏まえて映画の構想を練りはじめた」と語っているだけあって、ホラー映画であると同時に、かなりヘビーな家族崩壊映画として作られていたし、『ミッドサマー』は、一家心中というトラウマを抱えた主人公が、見知らぬ土地の見知らぬ人々に新しい家族を見出すまでの物語だった。


(c)2018 Hereditary Film Productions, LLC

『ボーはおそれている』もまた、あからさまに家族の呪い……というよりも、直裁的なまでに母親の呪いを描いた作品になっている。アリ・アスターも、本作が非常にパーソナルな作品であることを認めている。

「このような映画を作るとき、ある意味で自分の内側を引っ張り出しているような感覚になる。特にこの映画が公開されたとき、私はとても大切に思っていたんだ。前にも言ったことがあるけれど、自分の映画の中では一番好きだし、一番遠くまでジャンプできた作品だと思う。まだ3本しか作っていないけれど、作る喜びが本当にあったんだ」
引用元:https://www.vanityfair.com/hollywood/2023/10/ari-aster-beau-is-afraid-postmortem-reaction-awards-insider

本人は“作る喜び”と言っているが、映画に登場するのは、「母乳を飲まない」、「誕生日プレゼントに同じCDを渡してくる」「従順でない」という、息子に対する母親の恨み節。並の感覚であればメンタルが相当やられてしまうような題材を、あえてアリ・アスターは自分の内側へと引っ張り出す。

筆者が驚愕したのは、モナがボーに「あんたを生み出す苦労がわかる?」とまくしたてるシーンだ。

「自分勝手な子! 何を泣き喚いているの? あんたを生み出す苦労が分かる? 立ちなさい。今になって泣く? 今になって母親が必要? あんたが生まれてから、私は自分の奥から必死で愛を絞り出し、あんたに与えてきた。私の人生を捧げてやったのよ。

あんたは一方的に奪い、私は空になるまで身を絞り尽くした。すべて与えてやった。見返りは何? 私に何がある? 侮辱と虚しい約束だけ。(中略)愛 パニック 不安で私は身も心も粉々。坊やは空腹? 健康なの? 外の世界を恐れている? そんな苦悩の報いは? 哀しみよ。そして憎しみ」

息子に対する哀しみと怒りは、ラストに訪れる裁判シーンで爆発する。ボーが9歳49日のとき、母親と一緒に買い物に出掛けた彼は、なぜか柱の影に隠れてしまう。必死に息子を探すモナは、つまずいて膝の靱帯を痛めるが、彼は助けにも行かない。15歳210日のとき、彼は男の子たちを自宅に招き入れ、母親のバスルームにあった下着の匂いを嗅がせて、好きなものを持ち帰らせた。モナは自分に愛を注いでくれなかった息子を告発し、厳粛なる裁きを陪審員に求める。

あくまで筆者の想像だが、これは全てアリ・アスター自身に起きた、本当の出来事なのではないだろうか。彼はトラウマを隠すどころか、嬉々として自分が創造する物語に組み込んでしまったのではないか。決して他者には見せたくない、隠しておきたい、心の片隅にしまっておいた部分を、フィルムに刻みつけてしまったのではないか。だとしたら、とてつもないメンタリティである。

モーターが爆発してボートは転覆、ボーは溺死する。彼は羊水……母親の胎内のなかへと戻っていったのだ。それはモナにとって究極の至福だろう。『ミッドサマー』のラストカットで、ダニー(フローレンス・ピュー)が見せるとびっきりの笑顔と同じように、『ボーはおそれている』もまた最高のハッピーエンドで幕を閉じるのである。

 

(c)2023 Mommy Knows Best LLC, UAAP LLC

*2024年2月16日時点の情報です。

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