筆者はデヴィッド・リンチの大ファンである。特に『イレイザーヘッド』(1976)や『ブルーベルベット』(1986)は、繰り返し観続けているフェイバリット・ムービーだ。だが正直申し上げて『デューン/砂の惑星』(1984)は、一度観たきり。メランジやらフレーメンやらイミフすぎる設定、「ファスト映画か!」とツッコミたくなるくらいにダイジェスト的な編集に、当時は「なんだべなーこの映画」と思ったものだ。
今回この稿を書くにあたって久々に鑑賞してみたが、やはりこの『デューン/砂の惑星』、相当にキテる映画である(いい意味でも悪い意味でも)。デヴィッド・リンチもこの映画を自分のキャリアの中で唯一の失敗作と考えているようで、今日に至るまで特別版DVD制作のオファーや正式コメントを拒否し続けている。本人にとってこの作品は、ほじくり返されたくない過去なのだろう。
なぜ『デューン/砂の惑星』は、世紀の失敗作という烙印を押されてしまったのか? というわけで今回は、伝説のSF超大作についてネタバレ解説していきましょう。
映画『デューン/砂の惑星』(1984)あらすじ
時は10191年。宇宙は皇帝シャダム4世によって支配されていた。この時代に最も貴重な資源は、メランジと呼ばれるスパイス。体を動かさずして自由に旅ができることから、宇宙旅行には必須の物質だった。このスパイスを採取できるのは、砂に覆われた荒涼の惑星アラキス。通称デューンとも呼ばれるこの星を舞台に、壮大なドラマが幕を開ける。
※以下、映画『デューン/砂の惑星』のネタバレを含みます
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“世界で最も優れ、最も売れたSF小説”「デューン」
原作の「デューン」は、アメリカの作家フランク・ハーバートによる全6巻からなるSF小説シリーズ。
「デューン/砂の惑星」(1965)
「デューン/砂漠の救世主」(1969)
「デューン/砂丘の子供たち」(1976)
「デューン/砂漠の神皇帝」(1981)
「デューン/砂漠の異端者」(1984)
「デューン/砂丘の大聖堂」(1985)
間違いなく「デューン」は、世界で最も優れたSF小説であり、世界で最も売れたSF小説の一つだ。アーサー・C・クラーク(代表作:「幼年期の終わり」、「2001年宇宙の旅」)は「私は「指輪物語」以外にこれに匹敵するものを知らない」と激賞し、ロバート・A・ハインライン(代表作:「宇宙の戦士」、「夏への扉」)は「力強く、説得力があり、最も独創的」とベタボメ。
その一方でフランク・ハーバートは、この作品がSF作品として語られることに違和感を抱いていたという。時代設定こそ未来だが、本人は「デューン」を「アーサー王物語」のような新しい神話だと考えていたのだ。
またハーバートは、作品に通底するどこかイスラム的、中近東的なニュアンスが、アラブ独立闘争を描いた『アラビアのロレンス』(1962)からの影響であることを認めている。フレーメンの救世主となったポウル・アトレイデの物語を、イギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが、中東アラブ人によるトルコへの反乱を手助けし、“アラビアのロレンス”と称されて独立闘争のシンボルになった実話に重ね合わせているのだ。
これだけの大ヒット小説を、映画産業が放っておくはずがない。さっそく、『猿の惑星』(1968)や『ドリトル先生不思議な旅』(1967)を手がけたプロデューサーのアーサー・P・ジェイコブスが映画権を獲得。監督には、『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーンが考えられていた。ところがジェイコブスが急死してしまい、計画は宙に浮いてしまうことに。続いて、フランス人映画プロデューサーのミシェル・セドゥが、『エル・トポ』(1970)や『ホーリー・マウンテン』(1973)で知られるアレハンドロ・ホドロフスキーを監督に招いて、映画化することを発表。
世紀のプロジェクトは、遂に動き始めた。
世界最高峰の才能を招き入れた、アレハンドロ・ホドロフスキーの挑戦
ホドロフスキーは未曾有のSF超大作を創り上げるにあたって、「各界から世界最高峰の才能を招く必要がある」と考えていた。彼が“魂の戦士たち”と呼ぶ、驚愕のメンツを紹介しよう。
サルバドール・ダリ(銀河帝国の皇帝役)
ミック・ジャガー(フェイド・ラウサ役)
オーソン・ウェルズ(ハルコンネン男爵役)
デヴィッド・キャラダイン(レト侯爵役)
メビウス(絵コンテ、キャラクターデザイン)
H・R・ギーガー(建造物デザイン)
クリス・フォス(宇宙船デザイン)
ダン・オバノン(特殊効果)
ピンク・フロイド(音楽)
いやもう、ダリとミック・ジャガーとオーソン・ウェルズが一つの画面に収まっていることを夢想するだけで、頭がクラクラしそうである。ちなみに主人公のポウルには、ホドロフスキーの息子ブロンティスを考えていたというが、親バカにしても子供の責任がデカすぎやしないか?
だが、ホドロフスキーの挑戦も頓挫してしまう。「上映時間は10時間を超える」という彼の発言が製作サイドをビビらせたことも一因だろうが(今ならNetflixあたりでTVドラマシリーズにすればいい話だけど)、総予算1500万ドルのうち500万ドルが不足する事態に陥ってしまったのが最大の原因だった。
このあたりの顛末は、『ホドロフスキーのDUNE』(2013)というドキュメンタリーで詳しく紹介されているので、興味のある方はぜひチェックしてほしい。「サルバドール・ダリがハリウッド史上最高額の俳優になりたいと言い出して、1時間あたり10万ドルの出演料を要求した」とか、ヤバすぎるエピソードが満載でめっちゃ面白いです。
製作中止が決定し、ホドロフスキーは意気消沈。監督の座はデヴィッド・リンチに引き継がれた。『ホドロフスキーのDUNE』で、彼はその時の心境をこんな風に答えている。
「デヴィッド・リンチが監督すると聞かされた。ショックだった。彼なら成功させるとね。あの映画を作れる才能を持つ唯一の監督だ。私の夢だった映画を他の監督が作るなんて。
(中略)
私は病人のようによろよろと映画館に行った。映画が始まった時には今にも泣き出しそうだった。観てる間にだんだん元気が出てきた。あまりのひどさに嬉しくなった」
(『ホドロフスキーのDUNE』より抜粋)
何とまあ、大人気ないくらいに正直な感想。同時にホドロフスキーは、「才能あるリンチがこんな駄作を作るはずがない。製作者のせいだ」とも考えたという。
『デューン』のために集結していた“魂の戦士たち”は、プロジェクトから離散。その時のコアメンバーが中心となって創り上げた映画こそ、ご存知『エイリアン』(1979)なのである。…だが、これはまた別の話。詳しくは拙稿「SFホラーの金字塔「エイリアン」シリーズを徹底解剖!その知られざる誕生秘話とは」をご一読ください。
複雑すぎる設定、ダイジェスト的な編集。『デューン/砂の惑星』失敗の原因とは
新しく「デューン」の映画化権を獲得したのは、ディノ・デ・ラウレンティス。『戦争と平和』(1956)や『天地創造』(1966)など、数々のスペクタクル映画を手がけてきた、イタリアを代表する大プロデューサーだ。当初、彼が監督に指名したのはリドリー・スコット。しかし脚本を巡って原作者のハーバートとモメたり、兄フランクが突然癌で亡くなったことによるメンタル的な問題もあって、途中で降板してしまう。
次の監督を探していたラウレンティスは、『エレファント・マン』(1980)を観て衝撃を受ける。その特異な容姿から“エレファント・マン”と呼ばれ、見世物小屋に入れられていた青年メリックの半生を描いたこの作品には、監督の豊かなイマジネーションと映像美に溢れていた。「デューン」を任せられるのは、この男しかいない!! さっそく彼はデヴィッド・リンチにコンタクトをとる。
「ディノの事務所から電話があって、「デューン」を読んだことがあるかと聞かれたんだ。最初、私は彼らが ジューン(6月)と言ったと思ったんだけどね。私は読んだことがなかった。本を手にしたら、まるで新しい言葉を聞いているような気分になったよ。
(中略)
「デューン」は自分が好きなものに満ち溢れていて、これは映画化できる本だと思った。興奮した私は、ディノと何度かミーティングを行った。彼が私を雇った最大の理由は、『エレファント・マン』だった。彼が求めていたのは宇宙の機械ではなく、人間を描いたSF映画だったんだ」
(スターログ誌のデヴィッド・リンチへのインタビューより抜粋)
当時リンチは、ジョージ・ルーカスからも『スター・ウォーズ エピソード6/ ジェダイの帰還』(1983)の監督をオファーされていたのだが、「It’s your thing, it’s not my thing(これはあなたの仕事で、私の仕事ではない)」と断ったのは有名な話。それだけ、リンチは「デューン」に惹かれていたのである。
だが、出来上がった映画は珍品としか言いようのないものだった。まず、話がよく分からない。アトレイデ家だのハルコンネン家だの、登場人物が多くて一見しただけでは人間関係が掴みきれないし、クイサッツ・ハデラッハとかベネ・ゲセリットとか、絶妙に覚えにくいネーミングの独自設定が横溢していて、完全に頭がパンク状態になってしまう。公開当時、一部の映画館ではわざわざ用語集が配られたという逸話もあるくらいだ。
上映時間も問題だった。ラフカットの段階で4時間を超えていたという本作は、リンチの意向を反映させるには少なくとも3時間の長さは必要だった。しかしユニバーサルの幹部や映画の出資者たちは、上映時間が長くなることで映画館での回転数が少なくなることを恐れ、2時間強に収めることを厳命する。だが原作の長尺のストーリーを語るには、この上映時間はあまりにも短すぎた。
当然のごとく、映画はダイジェスト的な編集になってしまう。特に後半の構成はひどい。ポウル(カイル・マクラクラン)はさっき出会ったばかりのチャニ(ショーン・ヤング)とあっという間に恋仲になり、気付いたらフレーメンのリーダーとして祭り奉られている。なんだか大河ドラマの総集編を見させられているみたいに、観客そっちのけで物語が終幕に向かっていくのだ。
しかもリンチは、ダイジェスト的な編集を施すにあたって、単にナレーションで説明を済ますようなことはしない。おそらくこの映画を観た読者の皆さんは、こんな感想を抱かれただろう……「モノローグが多すぎるやないかい!」と。映画史上でも、これだけモノローグが多い作品は稀だろう。主人公ポウルだけならいざ知らず、レト(ユルゲン・プロホノフ)もジェシカ(フランチェスカ・アニス)も、どいつもこいつも内面の声を囁きまくりである。
そしてモノローグが多いということは、そのシーンは「アクションとして死んでいる」ことを意味する。セリフではないにせよ、キャラクターが今考えていることを内面の声で語らせている訳だから、映画としてのアクション要素は剥奪され、単なる説明描写に陥ってしまう。要は絵的に面白くないのだ。
ファイナルカット権(最終的な編集の権利)を持つことが許されなかったリンチにとって、おそらくこのような形での公開は望んだものではなかっただろう。
リンチの才能を信じきれなかったディノ・デ・ラウレンティス
ホドロフスキーは映画を観て、「才能あるリンチがこんな駄作を作るはずがない。製作者のせいだ」とコメントしているが、筆者も全く同意見。明らかにこの作品は、デヴィッド・リンチとディノ・デ・ラウレンティスの指向性がミスマッチを起こしている。リンチのインタビューを抜粋しながら、そのあたりを考察していこう。
まず、リンチは決して大衆娯楽に迎合する職人監督ではない。己の信ずるアートをとことんまで突き詰める、アウトサイダー系アーティストだ。だがこの映画を製作するにあたって、リンチにはあまりにも制約が多すぎた。できるだけ多くの観客に映画館に足を運んでもらおうと、レイティング(年齢制限の規定)をPGに設定したからだ。
General Audiences(G)
全年齢に適している作品。
Parental Guidance Suggested(PG)
視聴制限はないが、内容の一部に子供向きではない可能性あり。鑑賞には、保護者の判断が必要となる。
Parents Strongly Cautioned(PG-13)
視聴制限はないが、内容の一部は13歳未満の子供向きではない可能性あり。鑑賞には、保護者の注意が強く奨励される。
Restricted(R)
内容に過激な表現が含まれるため、17歳未満の子供は保護者の同伴が必要。
No One 17 And Under Admitted(NC-17)
内容に過激な表現が含まれるため、17歳以下の子供は視聴できない。
PGは基本的にはGと同じく全年齢の視聴者が想定されたレイティングのため、過激な表現はできない。できるだけお金を回収したいプロデューサーにしたら当たり前の判断だが、そのことによってリンチの表現の幅は大きく抑えられてしまったのだ。
「いろいろ面白いことを考えることはできても、PGというシバリが入った途端に、多くのことが水の泡になってしまう。私は道を外れるのが好きなんだ。この映画では、それがあまりできていない」
(スターログ誌のデヴィッド・リンチへのインタビューより抜粋)
だが筆者はレイティング以上に、そもそもラウレンティスがリンチという作家をきちんと理解していなかったことが問題だと考えている。前述した通り、ラウレンティスがリンチを雇ったきっかけは『エレファント・マン』だった。だがリンチ映画にしてはセンチメンタリズムに溺れすぎているこの作品は、フィルモグラフィーの中でむしろ特異な位置を占めている。彼の本領は『イレイザーヘッド』に代表されるような、ビザールなナイトメア・ムービーにあるのだ。
だが、リンチは意外なコメントを残している。
「ディノは『イレイザーヘッド』を見たことがない。実は彼は『イレイザーヘッド』が嫌いなんだ」
(スターログ誌のデヴィッド・リンチへのインタビューより抜粋)
これは衝撃の告白である。もはや作家性の否定と言ってもいい。プロデューサーが監督のクリエイティビティーを信じられずして、良い作品ができるはずがない。この映画の不幸は、ディノ・デ・ラウレンティスとデヴィッド・リンチの座組にあったと言っても過言ではないだろう。
「『デューン/砂の惑星』はモノクロで作りたんだが、実際にはカラー映画だ。それについて悪いとは思っていないが、『デューン/砂の惑星』の一部はモノクロで見てみたかったね」
(スターログ誌のデヴィッド・リンチへのインタビューより抜粋)
これも非常に興味深い発言だ。もしこの作品がモノクロで作られていたとしたら、『イレイザーヘッド』のようなインダストリアル(工業的)なイメージがより前景化され、よりナイトメア感に溢れた作品になっていたことだろう。すべては夢想に過ぎないのだけれど。
確かに『デューン/砂の惑星』は、お世辞にも出来の良い作品とは言えないかもしれない。だが少なくとも筆者は、ハルコネン男爵(ケネス・マクミラン)の出演シーンだけはリンチらしさが滲み出ていると思っている。
反重力インプラントを埋め込んで、肥満のために歩くこともままならない巨体を、宙に浮かせる怪物的存在。その異常な攻撃性、暴力性をリンチは嬉々として撮影したに違いない。手下に何やら謎の楽器を弾かせて、ハルコネン男爵がバカ笑いしながらクルクル回るシーンなんぞ、まさしくリンチ的な筆致ではないか!細部に目を凝らせば、確かにそこにはデヴィッド・リンチ的なものが刻印されている。筆者は、それだけでもこの映画の価値があるものと信じている。
商業的にも批評的にも『デューン/砂の惑星』は失敗に終わり、当初予定されていた続編の計画はすべてキャンセルされた。
そこからおよそ35年の歳月を経た2021年、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の手によってリメイク作品『DUNE/デューン 砂の惑星』(2020)が、2021年10月15日に公開されようとしている。リドリー・スコットとアレハンドロ・ホドロフスキーが挫折し、デヴィッド・リンチが辛酸を舐めたこの映画を、『メッセージ』(2016)、『ブレードランナー 2049』(2017)を手がけた現代最高の才能が挑戦するのだ。
果たして、その結果やいかに。もちろん筆者は、初日に映画館へ駆け込むつもりだ。
※2021年8月20日時点の情報です。