櫛木理宇の同名ミステリーサスペンス小説を『孤狼の血』『彼女がその名を知らない鳥たち』などの白石和彌監督が映画化した『死刑にいたる病』。
20人以上の少年少女をいたぶり殺害したシリアルキラーの死刑囚から、「一つだけ自分の犯行ではない事件がある。その件に関して冤罪であることと真犯人を突き止めてほしい」と言われた大学生は、調査を進めていくうちに数々の禁断の事実に触れていきます。今回は話題のサスペンスホラーを、原作との違いやタイトルの意味も絡めてネタバレありで解説していきます。
『死刑にいたる病』(2022)あらすじ
理想とは程遠いランクの大学に通い、鬱屈した日々を送る雅也(岡田健史)の元にある日届いた1通の手紙。それは世間を震撼させた稀代の連続殺人事件の犯人・榛村(阿部サダヲ)からのものだった。24件の殺人容疑で逮捕され、そのうちの9件の事件で立件・起訴、死刑判決を受けた榛村は、犯行を行っていた当時、雅也の地元でパン屋を営んでおり、中学生だった雅也もよくそこに通っていた。「罪は認めるが、最後の事件は冤罪だ。犯人は他にいることを証明してほしい」。榛村の願いを聞き入れ、雅也は事件を独自に調べ始める。そこには想像を超える残酷な事件の真相があった……。
※以下、『死刑にいたる病』のネタバレを含みます。
【ネタバレ】『死刑にいたる病』の真相とは?
まず、この『死刑にいたる病』のストーリーの全体を要約すると「すべて凶悪犯・榛村大和が死刑になるまでの壮大な暇つぶしだった」という結論になります。結局9件目の根津かおる殺害事件の犯人も、榛村大和でした。
ざっくり真相をまとめると「ずっと好みの少年少女をいたぶったのちに殺して完璧に隠ぺいしていた榛村だが、獲物の一人に逃げられ、自分の逮捕が近いことを悟った。それでも最後まで人を支配して殺人を楽しみたかった彼は、かつて自分が獲物候補として洗脳していた金山をある場所の歩道橋に呼び出す。
榛村を見て記憶が甦り怯える金山に対し、彼は「前みたいに痛い遊び(金山・弟との刺し合いのこと)がしたい」と言った。当然金山は怯えて嫌がる。すると、榛村は「じゃあ誰と痛い遊びすればいい?」と聞き、金山はちょうど歩道橋の下を通る帰宅中の根津かおるを見つけ、思わず彼女を指さしてしまった。そして、金山の選択通り、榛村は根津かおるを拉致して山中でいたぶり殺した(潔癖症のかおるがいちばん嫌がる泥のなかでじわじわと)。」
ということになります。そして根津かおるも偶然選ばれたわけではありませんでした。彼女もかつて榛村の獲物として抑圧、洗脳された過去があり、潔癖症も偏食もそれが原因、また判を押したように毎日同じ行動をとっていたため、榛村は彼女が歩道橋の下を通るタイミングで金山に「選択」を促したのです。ずっと獲物としてとっておいたかおるの殺害を楽しむだけでなく、金山の心に深い罪悪感を植え付けて遊ぶことも目的でした。金山は狙い通り根津かおるの死に責任を感じ、頻繁に殺害現場を訪れていたのです。
そして、捕まる直前で拷問用の燻製小屋も燃やしていたこともあり、あえて普段の自分とは違うやり方でかおるを殺害しています。これも「僕の手口とは違う」と冤罪を訴え、死刑を延期し、さらに誰かを操って楽しむためだったと考えるのが妥当でしょう。主人公・筧井雅也は、かつて榛村が養護施設で親密な仲になった衿子の息子ということもあり、特別な獲物として目をつけられていたようです。そのため、榛村はわざわざ拘置所に呼び出して自分の冤罪を晴らすため奔走させ、雅也が情報を発見するたびに「凄いじゃないか」と褒め称え、手のひらで転がし、ギリギリまで遊びました。
ちなみに、本作の劇場パンフレットには付録として、榛村が雅也を父親ではないかと思い始めた時に、榛村から雅也に宛てた手紙が収録されています。これを読んだら雅也が自分を軽んじる実の父親より、榛村に親近感を覚えてしまうのも納得してしまうでしょう。榛村は口頭でも手紙でも一度も「僕が君の父だ」とは言っていませんし、実際そうではありませんでした。衿子が榛村桐江の家にいた時に身ごもったのは、ボランティア活動で出会った無責任な妻帯者の男の子供で、榛村は死産で生まれたその赤ん坊の処理などを手伝ったのです。当然、榛村は雅也が自分の子供ではないことははっきり確信していたはずですが、そのうえで彼が雅也に向けて言った白々しいゼリフの数々を思い返すと笑えてしまいます。
そして散々榛村に弄ばれ人まで殺しかけた雅也は、自分が結局何者でもない普通の人間であることをはっきりとつきつけられ日常に戻っていきます。映画は原作とは違い、そこからさらに恐ろしい仕掛けがあるのですが、それは後ほど語ります。
フィクション度の高いスーパー殺人鬼・榛村大和
こうやってまとめると、榛村のサイコぶり、切れ者ぶりは異常なレベルです。映画では原作では細かく描かれなかった榛村
が被害者と接触し、親密になるまでの過程も描かれていたのですが、それを見ても正直「こんなにみんな簡単に引っかかるの?」と思ってしまいます。おまけに映画では面会に立ち会う刑務官まで洗脳して支配下に置いていました。普通に考えればあり得ないですが、本作では榛村の超人ぶりに関しては「そういうもの」として、割り切って見た方がいいでしょう。原作もそうでしたが、『死刑にいたる病』は、「誰でも思い通りに動かしてしまう榛村大和というスーパー殺人鬼がいたら、どんなことをするのか」という思考実験的なフィクションです。
白石和彌監督も本作のパンフレットインタビューで、「自分の作品のなかでもエンタメに徹している」「フィクションらしいフィクション」と語っています。さらに、「コメディに転化する瞬間もあるかも」とまで言っているので、このちょっとやりすぎな「全て仕組まれていた」感も、「そういうもの」として楽しむのがおすすめです。阿部サダヲさんのキャスティングもコメディとして考えれば、さらにしっくりきます。
原作の榛村が養育能力のない実母・新井実葉子のもとでひどい幼少時代を過ごし、母の死後に事件を起こして少年院に行き、19歳で榛村桐江の養子なるまでの過去の説明をほとんど省いたのも、榛村大和という男の怪物性を高めるためには効果的だったと言えるでしょう。しかし、最後に雅也とのやり取りで彼の実母の「爪」に関する言及があり、ちゃんと想像する余地を残しているのは上手いです。原作では榛村は母に対し愛憎入り乱れたアンビバレントな感情を抱いており、殺された少年少女たちもどこか彼女に似ていたという設定になっています。興味がある方は読んでいただきたいのですが、そういったバックボーンが説明された上でも、何を考えているか底が見えない怪物性を持った彼のキャラクターの強さはすごいです。
『死刑にいたる病』のタイトルの意味とは?
さて、このキャッチ―で強烈なタイトルにはどのような意味が込められているのでしょうか。ここを語らずには本作を考察したことにはならないと思うので、考えてみましょう。
もちろん、まずここでいう「病」とは、自分好みの子供たちを殺さずにはいられない(劇中では「自分にとって必要だった」と語っています)榛村が抱える異常な癖のことを指していると考えるのが妥当です。誰もが彼の「病」に振り回されています。
しかし、このタイトルは当然、デンマークの著名な哲学者セーレン・キェルケゴールの代表的著書「死に至る病」に由来しています。原作の冒頭には「絶望とは死にいたる病である」というキェルケゴールの言葉が引用されていますし、映画でも序盤で雅也が受ける大学の講義で「死に至る病」について語られる場面がありました。
これまで散々語られてきた古典的名著でさまざまな解釈も生まれていますが、一応ざっくり説明するとキェルケゴールが語る「死に至る病」に当たる「絶望」とは、「自己を見失った状態」「本来の自分から目を逸らした状態」のことと言われています。そして自分の本質を見つめずに「絶望」したままでいると、「精神の死」が訪れてしまうのです。そして、キェルケゴールはこの「死に至る病」を直すために、「信仰(キリスト教)」の必要性を説いているのですが、ここでいう「信仰」とは「自分が信じるものを理屈抜きで信じること」とも取れます。また、自分が大切にしたいもの、人生を捧げたいものを見つけることもそれにあたります。
本来の自分を見つめ、自分の大切なものを見つける、というのはとても素晴らしいことに聞こえますが、榛村大和は過酷な生い立ちを経て、本来の自分を「人をコントロールすること」「人を殺すこと」に見出してしまったのです。ちょっと強引かもですが、榛村は自分の「死に至る病」を直す代わりに「死刑にいたる病」に罹ってしまったと考えると興味深いですね。
また、『死刑にいたる病』のなかでは、かつては優等生だったのに底辺大学に通う雅也も、「本来の自分から目を逸らしている」状態でした。父親から勉強一筋に生きるように抑圧され(ちなみにキェルケゴールも父から厳しく育てられていました)、榛村のベーカリーで過ごしている時だけが安らぎだった雅也は、榛村から頼られ、褒められ、さらに彼が実の父かもしれないという可能性まで提示され、どんどんおかしな方向に進んでいきます。「信仰」を榛村に見出し、彼と自分を同一視し、人を殺しかけるところまでいきました。終盤に目を覚ましていなければ、雅也も榛村と同じように「死刑にいたる病」を抱えて破滅していたかもしれません。
雅也が榛村のようになりかけたように、「死刑にいたる病」は「伝染病」と考えることもできます。原作の冒頭にはキェルケゴールの言葉と並んで、寺山修司の戯曲「疫病流行記」のセリフ「あたしはあなたの病気です」が引用されていました。
こちらもざっくりとしか説明できない(著者個人の解釈です)のですが、「一人の少女が陸軍野戦病院を訪れ、『あたしはあなたの病気です』という言葉を投げかけ、その言葉通りに病院やその町に疫病が流行し始める」という内容のようです。
『死刑にいたる病』は上記のセリフの引用そのままに、榛村大和そのものが「病気」で、人々の心に感染していく話とも取れます。金山や根津かおる、衿子らも榛村から病気をうつされた被害者です。
そして、映画版はオリジナルのラストをつけたことで「死刑にいたる病」の感染力が格段に高くなっていました。雅也は榛村への執着から離れ、恋人となった加納灯里と新たな人生を始めようとしていたのですが、なんと最後の最後に加納灯里も榛村大和とつながりを持っており(灯里も榛村のパン屋の常連だったという設定)、雅也よりもさらにどっぷりと彼に洗脳されていたことが明らかになります。そして「(私の)爪剝がしたい?」「好きな人の一部を持っていたいって気持ちわかるよね?」と、雅也に問いかけてきて映画は終わりました。
原作では、榛村がかつて獲物候補だった人物に手紙を送りまくっており(担当弁護士の佐村が洗脳されており手引きしている)、その一人である灯里がずっと好きだった雅也にアプローチするための方法を榛村に聞いていた……というくらいの塩梅なのですが、映画はこれでもかと飛躍しています。ジャンル映画らしい終わり方ですし、前述の「ある意味でのコメディ感」も強まりました。
果たして映画版では、あの後どうなるのでしょうか。雅也が灯里に殺されるのか、それともその逆もあり得るかもしれません。とにかく榛村大和が死刑になった後も、彼の「病気」はこの世に残り続けるという解釈ができます。「本来の自分を見失っている、あるべき自分から目を背けている」人にこの病が感染すると考えると、私も含め誰しもが無関係ではいれないでしょう。なかなかゾッとさせられるタイトルと結末です。
まとめ
ここまであれこれ語ってきましたが、『死刑にいたる病』はいろんな楽しみ方ができる作品です。シリアルキラーものが好きな人は、白石監督お得意の強烈なバイオレンス(普通なら間接表現になりそうな「爪を剝がす」場面などを真っ向から描いています)も楽しめますし、ミステリーとしても最後まで目が離せません。親との関係が自己肯定感に影響し、心に生まれたひずみを榛村のような人間に突かれる可能性もあるというリアルな恐怖も味わえます。
おまけに私のように、タイトルの意味を小一時間こねくり回して考える余地もあります。誰かと鑑賞して、あれこれ議論するのも面白いのではないでしょうか。
※2022年5月13日時点の情報です。