漫画原作者として浦沢直樹の『20世紀少年』など数々のヒット作を手掛けてきた長崎尚志(リチャード・ウー)が、構想10年をかけて作り上げたオリジナル脚本を映画化した『キャラクター』。
リアルな悪人が書けない漫画家が、目撃してしまった殺人鬼をモデルに作品を描いたら……そんな恐ろしいアイデアを膨らませた刺激的なダークサスペンスに仕上がっています。
本記事では映画『キャラクター』をネタバレありで考察します。
映画『キャラクター』(2021)あらすじ
複写された「絶対悪」。二人の共作、それは連続殺人事件。漫画家として売れることを夢見る主人公・山城圭吾(菅田将暉)。高い画力があるにも関わらず、お人好しすぎる性格ゆえにリアルな悪役キャラクターを描くことができず、万年アシスタント生活を送っていた。ある日、師匠の依頼で「誰が見ても幸せそうな家」のスケッチに出かける山城。住宅街の中に不思議な魅力を感じる一軒家を見つけ、ふとしたことから中に足を踏み入れてしまう。そこで彼が目にしたのは、見るも無残な姿になり果てた4人家族……そして、彼らの前に佇む一人の男。
※以下、『キャラクター』ネタバレを含みます。
【ネタバレ】映画『キャラクター』考察
『キャラクター』は公開から1年が経ち、すでにさまざまな考察も書かれているので、本稿では網羅的にではなく、いくつかのポイントに絞って考察したいと思います。
山城は本当にいい奴か
主人公の山城はリアリティのあるキャラクターが描けないという点で、絵が上手いのにずっとデビューできないでいました。
その理由に関して彼がアシスタントをしていた売れっ子漫画家の本庄が「サスペンスモノを目指しているのに、リアルな悪人が描けないのは致命的。あいつはいい奴だから、自分のなかに“悪人”がいないから描けない。自分にない要素だから。」と、漫画家にとっては死刑宣告のような辛らつなことを言っていました(そしてそれを山城本人も聞いて、複雑な表情を浮かべていました)。この山城が悪人キャラが描けない理由は、マンガ版や小説版でも同じことが言及されており、『キャラクター』という作品を成立させるための重要な要素と考えられます。
小説、マンガではさらに踏み込んだ内容が描かれており、本庄は「俺みたいな“悪い奴”は、社会に溶け込むために“いい奴”を演じるから“いい奴”も“悪い奴”も両方書ける。ただ山城は元から“いい奴”で、“悪い奴”はもちろん“いい奴”を演じる必要性もないから、リアルなキャラが描けない」という旨の内容を話しています。
映画を見る限り、確かに山城は内向的でお人好しな青年に見えます。しかし、彼のことが真の意味で「いい奴」に見えたでしょうか。
漫画家デビューしてから妻の夏美にはそっけなく、きつく当たっていますし、両親が再婚して母と妹とは血が繋がっていない家族との関係はぎこちないです。
そして何よりも殺人現場を目撃して、その犯人と断定できる人物を見ていながらそれを警察に話さず、自分のマンガのため、お金や名声のために隠してアイデアにしています。
もちろんそのことに関して、彼がなんの良心の呵責も感じていないわけではなく、作中では何度も悩んでいました。ずっと善と悪の当落線上にいるように見えます。
山城は居酒屋のシーンで清田に「マンガを信じている。マンガって正しいことは正しいってはっきり言える、善が悪に勝つって描けるものだから描いている」という旨のセリフを言っていますが、本心かわからないように、自分の後ろめたさをごまかすために言っているかのようなトーンで喋っていました。そして清田に「「34」は違う気がする、残酷なシーンがウケてるし」と言われ、山城は何も言い返せません。
そして、その後殺人犯・両角に「先生だってマンガのなかで楽しんで人を殺していた」と言われた時も、「違う」と言いながら明らかに動揺していました。
昨年、筆者が映画館で最初に『キャラクター』を見ていた時に思ったことは、「警察に両角を見たことを証言して彼が逮捕されたとしても、両角をダガーのモデルに描くことはできるのではないか。なぜ自分の目撃した犯人とは違う辺見が逮捕されても黙っているのか」という疑問でした。計算ずくだったとは言いませんが、もしかしたら山城は犯人が野放しになっていればまた自分のアイデアになるようなことをしでかしてくれるかもしれないと、期待していたのではないかとまで思えます。
また、山城夫妻がマンガが売れて1年しか経っていないのにセキュリティ完璧な超高級タワーマンションに住んでいることを「リアリティがない」と指摘するレビューもありましたが、それも山城が世間に対して後ろめたいことをしているから、いつかモデルにした殺人鬼が自分のもとに来るかもしれないからと、恐れていたことが原因と考えられます。冒頭のマンガ執筆シーンと最後の「34」最終話執筆シーンを見る限り、本当は山城はアナログにインクで原稿用紙に直接マンガを描くのが性に合っているのに、デジタルで書いてアシスタントともリモートでやり取りしているのも、自分のやっていることの後ろめたさや、また殺人シーンなどを夢中で描いているのを見られたくないからと考えられます。
そして、何よりも山城は両角と同じように「幸せな四人家族」を家庭環境のせいもあって疑問視し、心のどこかで憎んでいました。そんな自分の黒い部分をうっすらでも自覚していたから、ずっとサスペンスモノを描いていたと考えられます。
山城が最初の事件の家に行ったのは、本庄から「幸せそうな一軒家」を描いてきてくれと言われて、彼がたまたま目星をつけた家だったからです。それが、「幸せな四人家族」を憎む両角の考えと合致していたのが、物語の発端となります。まず、最初の段階で山城が両角と感覚をある程度共有していたから、事件現場で両角を目撃しただけで大ヒットにつながる悪人キャラを生み出せたのでしょう。山城は清田に真実を話す前、「ダガーは、僕が考えたオリジナルのキャラです」とはっきり言っていましたが、あれもまるっきり嘘の言葉ではなく、ある程度山城の心のなかの黒い部分にあった「悪人」が両角を目撃したことで、はっきりと具体化されたことで「ダガー」を作り出せたのでしょう。そして、その後は逆に両角が山城の生み出したマンガのなかの「ダガー」に行動を操られるようになっていきます。
本作における「作り手とキャラクターの関係性」については次の項で詳しく書きますが、「山城がいい奴か?」という疑問に関しては、ノベライズ版の方である程度はっきり答えが出ています。
長崎先生が「映画の脚本の第何項目かを小説にした」とはっきり言っているノベライズ版『キャラクター』は、映画とは大きく違う部分がいくつかあり、映画の原作ではありません。そして最後に一連の事件が解決した後、山城が漫画家として再起をかけ「善人しか出てこないホームドラマ」のマンガを描くというエピローグがついています。しかし、編集者の大村からは「登場するキャラクターの全員が善人の皮を被っている悪人で、こんなに悪意あるホームドラマは見たことがない」と意図せぬ評価を受けてしまうのです。
この皮肉な小説版の結末を見るだけでも、長崎先生が「山城は結局いい奴じゃない」「キャラクターが描けないのはまた別の問題」ということを描こうとしているのは明らかではないでしょうか。
その他、終盤の展開で、いくら殺人鬼確保のためとはいえ自分の家族たちを囮に使うという危険すぎる案を出すあたり、彼がいい人間とは言い切れないものがあります。
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なぜタイトルが『キャラクター』なのか
「キャラクター(Character)」という言葉にはさまざまな意味があります。
まず、「フィクションに登場する人物」のことを指すのはもちろん、それらの登場人物の「性格や性質」のことも指します。
語源はギリシャ語の「刻まれた印、記号」という意味で、つまり先天的な個性や性格だけでなく、後天的な「特徴」も意味に含まれるようです。
まず、前述の項で、両角という殺人鬼を見て、「自分のなかの黒いキャラクター」に気づいてヒットにつながるキャラを生み出した山城の物語にマッチしたタイトルなのは間違いないでしょう。
自分のなかにあったキャラを、他人を通して自覚するという現象は、「人の振り見て我が振り直せ」というようなことわざからもよくあることですが、そんな山城が影響を受ける殺人鬼・両角の殺人鬼っぽさも先天的とは限りません。
物語の最後で両角は「もともとは(かつて凶悪事件を起こした)辺見のファンだったが、いつの間にか辺見が自分のファンになった」と語っていました。
辺見は事件は起こしたものの、犯行中の記憶を失う心神喪失状態のようなので、両角にとっては御しやすい存在だったのでしょう。そうして、辺見は両角の「アシスタント」としての「キャラクター」を与えられ、両角の罪をかぶって捕まったり、清田を始末したりました。
そんな両角も、かつてカルト宗教団体の「4人家族を幸せの一単位として数える」教義に沿って生きていましたが、その組織が捜査のメスで壊滅させられ、彼は戸籍もアイデンティティも持たないまま世に放たれます。
そんな彼は自分の「キャラクター」を見つけるために、辺見に惚れこみ、彼の「殺人鬼」としてのキャラクターを奪い、殺人事件を起こすようになります。そして彼は作中の最初の殺人現場で山城に目撃され、マンガに描かれるようになったことで、「ダガー」となり、山城の「34」のキャラとして実際に事件を起こし、山城の想像を超えて暴走して逆に創作者を動かすような存在となりました。
強烈なキャラを生み出した漫画家がストーリーに沿ってキャラを動かすのではなく、「キャラが勝手に動き出すようになる」と語ることは昔からよくありますが、それを2次元の世界ではなく3次元の世界で起こしてしまうというアイデアは、『MONSTER』のヨハン・リーベルトや『20世紀少年』の「トモダチ」など、浦沢先生とともに強烈な悪役を生み出してきた長崎先生ならではのものでしょう。
そして、両角のキャラは彼オリジナルのものではなく、後天的に身につけた物なので、彼の殺人鬼としての像がつかみづらいのも当然です。これは演技初体験のFukaseさんのキャラともマッチしていますが、両角はもともと超異常者というわけではなくやっと手に入れた「殺人鬼」というキャラを必死に演じているように見えます。
彼のアパートの部屋の赤く塗られた壁や事件現場のスナップ、異常なラクガキなども、正直ナチュラルボーンな殺人鬼のクラス場所としてはやりすぎですし、原一家殺害の際の挙動不審な様子も大げさです。しかし、それは演出上の不備、というよりも「殺人鬼像を模索中」の両角の状態を現していたとも取れます。
だから両角は最後に「殺人は疲れる」「自分は紙に描いているだけで、実行は自分にやらせてる」と山城に不満を垂れる快楽殺人者らしからぬ発言をしますし、今度は自分が作り出す、話を決める側になりたいと思ったから、漫画家としての生命でもある山城の両手を斬りつけ、最後は山城の仕事のデスクに座って彼になり替わろうとしたのでしょう。
そして、山城が両角をおびき寄せるために描いた「34」の最終回の原稿では、ダガーが山城に当たる漫画家キャラを刺して、彼に上から覆いかぶさる形で倒れていましたが、実際は山城側が両角を刺して、とどめを刺そうとしたところで真壁に撃たれて両角の上に覆いかぶさって倒れました。
このわかりやすい逆転現象の通り、辺見から両角に移った殺人鬼のキャラが山城にも移り(前述のとおりもともと素養があった)、両角と山城という現実と虚構の両方の作者によって培養され、最後は山城にだけ受け継がれたと考えられます。
だから最後の裁判のシーンで、キャラを奪われた両角は「僕は……誰?」と呆然とつぶやき、そして目を覚ます山城の姿が両角にオーバーラップして映画が終わったのでしょう。
前述のとおり、「キャラクター」が「他者から刻まれるもの」だとした場合、最後は殺人鬼キャラとなった山城が覚醒したとも考えられるため、かなりゾッとするラストです。
山城家の双子は本当に無事生まれたのか?最後の刃物の音は?
『キャラクター』のラストでは、両角は捕まり、山城も重症ながら一命をとりとめ、背中を両角に刺されていた夏美も山城より先に回復し、双子のベビーカーを持って彼の病室に見舞いに来る姿も描かれていました。
様々な悲劇が引き起こされたとはいえ、本作は最後はなんとかハッピーエンドを迎えたようにも見えます。
ただ、不穏なのは肝心の双子の姿が一度も映されず、泣き声はしゃぎ声も聞こえないことです。
このことに関して「双子は夏美が怪我をしたことで死産となり、最後は夏美は病んだ状態になっていて、使う予定だったベビーカーを持って行動している」という解釈もありました。
しかし、夏美は山城の病室でベビー用品の女の子の服のカタログに丸を付けていました。また、そのあと、おそらく前に夏美が務めていた家具屋の同僚のもとを訪れるシーンでは、彼女は「キャンセルしちゃってごめん。」と謝っています。生まれる予定だった双子の片方(男の子)が死んだため、買う予定だった何かの家具を「キャンセル」したとも考えられますが、同僚の女性は特に気まずそうな様子もなく、また彼女の方を向いた二つのベビーカーを左右交互に笑顔で見つめていました。
と、なると結局は双子は無事生まれている可能性もあります。ここは解釈がどうとでもとれるようにしたのでしょう。
また、同僚のもとを訪れている夏美と子供たちを外から見つめる不穏な目線のカットもありました。映画ラストの段階で、清田を刺した後ずっと行方不明の辺見は捕まっていません。そのため「辺見が双子たちを殺しに来た」と解釈する声もあります。エンドロールの一番最後に、刃物が「シャリン、シャリン」と2回鳴る音が挟まれているため、「辺見が双子を刺した音だ」と考えることもできるでしょう。
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ただ、音を聞く限り、同作内で人を刺した音とは明らかに違います。どちらかというと「刃物を研ぐ」音に聴こえました。
もちろん、ただ驚かせるためだけに作り手が入れた音だとは考えにくいです。誰かが誰かを刺すために準備している音でしょうか。
もしかしたら、前項の通り、両角の「殺人鬼」キャラを引き継いだ山城が刃物を研いでいる音かもしれません。もしかしたら双子ちゃんを刺すのは父である山城、という胸糞過ぎる展開もあるかもしれません。
ただ、山城は病室で、自分を気にかけてくれた清田の似顔絵を描いていました。彼はかつて暴走族をやっていたうえに、両親のいる幸せな家庭ではない環境で育っていないことも作中で語られています。清田のなかにも「悪」の一面はもちろんあるのでしょう。ただ彼は、そんな自分の悪の面を押さえつけ、悪人の気持ちもわかる刑事として最後まで真っ当に生き続けました。
そんな『キャラクター』という作品の良心でもあり、「人は変われる」ということの象徴でもある清田のことがまだ心に残っているのであれば、山城もまだ大丈夫かもしれません。
まとめ
『キャラクター』映画内の数々の示唆的な描写だけでなく、マンガやノベライズもあるため、深堀していくと終わらなそうな作品で、見る人ごとに独自解釈が生まれそうな土壌を持っています。私が示したのはほんの一解釈なので、ぜひご自分の目で何度も映画を見て、できればその他のバージョンやインタビューなども読んで、友達とわいわい語りながら見るのが楽しいでしょう。
最後に言っておくと、残酷描写は最低限ありますが、肝心なところは想像させるにとどめつつ残虐性は損なわれないギリギリの描き方をしている映画なので、ホラーやグロが苦手な人でもなんとか楽しめるラインの作品だと思います。
※2023年7月28日時点の情報です。