行方不明になった娘を取り戻すため、法を犯す決意を固めた父親の姿を描いた映画『プリズナーズ』。
『メッセージ』や『ブレードランナー 2049』の鬼才ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が手がけたヒューマン・サスペンスで、主演を務めたヒュー・ジャックマン自ら、「胸の張り裂けるような映画だ」とコメントするほどの衝撃作に仕上がっている。
しかも実はこの作品、キリスト教的な暗喩があちらこちらに散りばめられた、バリバリの宗教映画でもあるのだ!
という訳で、今回は『プリズナーズ』をネタバレ解説していきましょう。
映画『プリズナーズ』あらすじ
ペンシルベニア州の田舎町で、突然ひとりの少女が行方不明になる事件が発生。最重要容疑者と思われたアレックス(ポール・ダノ)は10歳程度の知能しかなく、証拠不十分で釈放となる。しかし彼こそが真犯人と確信している父親のケラー(ヒュー・ジャックマン)は、アレックスを監禁して娘の居場所を聞き出そうとする。
一方、事件の担当となったロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)は、独自の捜査で真相を明らかにしようと奔走。やがて、事件は思わぬ方向に進んでいく…。
※以下、映画『プリズナーズ』のネタバレを含みます。真犯人についても記述しておりますので、ご注意ください
神を信じる者と神に背を向ける者との、戦いのドラマ
天にまします父よ
御名の尊ばれんことを
御国の来たらんことを御旨が地にも行われんことを
日用の糧を与えたまえ我らが人を赦すごとく
我らの罪を赦したまえ我らを試みに遭わせず
悪より救いたまえ国と力と栄光は限りなくあなたのもの
アーメン
キリスト教の「主の祈り」の朗読が流れ、感謝祭のためにシカ狩りをするシーンで幕を開ける『プリズナーズ』。冒頭からいきなり宗教色がムンムンだ。
実はこの映画に登場する主要キャラクター自体も、それぞれ宗教的な役割を反映するように設計されている。
■誘拐された女の子の父親ケラー(神を信じる者)
十字架を肌身離さず身に着けている敬虔なキリスト教徒。子供を失っても神への信仰を失うことはない。罪なき者に暴力をふるうという許されない行為に手を染めるが、人を殺めるという最後の一線は越えず、最終的に神の恩恵を受けるに至る。
■誘拐事件の真犯人ホリー(神に背を向ける者)
おそらく元々は敬虔なキリスト教徒だったが(「聖なる」を意味するHolyという名前がそれを示している)、子供を失った悲しみから信仰心を捨てた。「子供を消し去るのは神に対する戦いだ」と宣言し、“邪悪な天使”の象徴である蛇を飼っていることからも、神への反逆者=悪魔であることが暗示される。
■事件を追いかける刑事ロキ(異教の者)
ロキという名前は、北欧神話に登場する神の名前に由来。冒頭のシーンで東洋の考え方である干支の話をしていること、フリーメーソンの指輪をはめていることからも、異教の者であることが示される。
名前には「終わらせる者」という意味があり、文字通り事件を終わらせる=解決する者(警察)として登場し、ケラーに協力はするものの、その関係性が融和することはない。
ロキ(18世紀のアイスランドの写本より)
ものすごく大雑把に言ってしまうと、この作品は神を信じる者(ケラー)と、神に背を向ける者(真犯人=ホリー)による戦いのドラマ。
異教の者(ロキ)は悪魔退治に一役買うものの、キリスト教とも一線を引き、ケラーとも微妙な対立が生じている、という構図になっている。
『プリズナーズ』はこの三者対立を頭に入れて鑑賞すると、非常に分かりやすい。
ラストシーンが示すキリスト教的な意味とは?
ケラーはホリーの謀略によって地下に閉じ込められ、絶体絶命のピンチを迎える。ちなみにケラーという名前にはもともと「地下」という意味がある。でもなぜケラーは最後に助かることができたのだろうか?
答えは単純明快。神に祈ったからだ。
全能の神よ
娘を守りたまえ
自分の生命が風前の灯火であることを知りながら、それでも娘の生命が助かることを第一に考え、神に祈りを捧げた。しかも彼の生命を救ったのは、娘アンナが大切にしていたホイッスル。旧約聖書詩編の第150編1節には、こんな一節が書かれている。
ハレルヤ。神の家でほめたたえましょう。
(中略)
タンバリンを打ち、神をほめたたえましょう。
弦楽器と笛で神をほめたたえましょう。
つまりホイッスル(=笛)を鳴らすこと自体が、神への祈りでもあったのだ。願いは通じて、彼はロキによって見つけ出される(ことが暗示される)。
しかし、『プリズナーズ』は単なるキリスト教礼賛映画ではない。それについては後述しよう。
『プリズナーズ』というタイトルが意味するものとは?
映画のタイトルでもある、プリズナーズ(囚われた者たち)。確かにこの作品には様々な囚われ人が登場する。
ケラーの娘アンナやアレックスは監禁されて文字通り囚われの身となり、ホリーとその夫は子供を誘拐するという狂気に囚われている。映画の主人公であるケラーもまた例外ではない。
敬虔なキリスト教徒である彼は、それゆえに「宗教に囚われている男 = ひとつの考え方に囚われている男」として描かれる。アレックスが犯人と信じきっている彼は、暴力をふるってまでも真相を突き止めようとするが、その行動原理が「神の存在を疑うことなく信じること」という彼の宗教観に(悪い意味で)リンクする。
一方ロキは、ケラーと違って多様な価値観を許容し、その経験と知恵を結集して犯人を追い詰めようとする。凡百の映画なら、“ホームズ役”の彼が最初に真相に到達することだろう。しかしこの映画で、誰よりも早く真犯人にたどり着くのはケラー! 彼は神の導きによって、悪魔(=ホリー)と対峙する権利を得るのだ。
ところがこの悪魔に鉄槌を下すのはロキの方で、ケラーは悪魔の策略によって地下室に閉じ込められてしまう。どちらか一方だけでは、事件解決には至らない。“宗教に囚われている男”ケラーと、“合理主義に囚われている男”ロキが共闘することによって、ようやく真相が明るみになるのだ。
これは作り手が、「宗教的なもの」と「非宗教的なもの(合理主義)」という二律背反を、あえて肯定も否定もせず、どちらも必要欠くべからざるものとして描いているからこそだろう。
我々は迷路から抜け出すことができない
ホリーの夫(神父の家の地下室からミイラで発見された人物)が着用していた、迷路をかたどったネックレス。この映画では、「迷路」がモチーフとして印象的に使われている。
フランス北部に位置するシャルトル大聖堂の床には迷路が描かれていることで有名だが、これは人の一生としての巡礼を意味している。長い旅路の果てに神がおわすという、いわば天国への扉なのである。
シャルトル大聖堂の床に描かれた迷路
しかし『プリズナーズ』を観ている限りは、そんな「天国ヤホーイ!」的な祝祭感は全く感じられない。
この映画における迷路とは、脱出しようとしても決して抜け出すことができない、“囚われ人”の象徴にしか見えないのだ。
それなぜか?
この作品を観ている現代人が、神の存在を疑い、天国の存在を疑う、「非宗教的なもの=合理主義」という病に囚われているからだ。そう、最大の囚われ人(プリズナーズ)は我々自身なのである!
ゴリゴリのキリスト教礼賛映画でもなければ、単純な合理主義礼賛映画にも非(あら)ず。『プリズナーズ』は、とてつもない地平から世界の真理をあぶり出そうとした野心作なのだ。
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