【ネタバレ考察】映画『ある閉ざされた雪の山荘で』事件の真相は?結末の意味は?原作小説との違いも解説!

わざわざ聖地で結婚式を挙げた映画ドラマオタク

古澤椋子

人気ミステリー作家・東野圭吾が1992年に発表した小説が、30年以上の時を経て映画化。トリックや複雑なキャラクター設定を人気の若手俳優が演じる。与えられた架空の密室で、何が起きるのか。この物語の物語を見届けてほしい。

人気ミステリー作家・東野圭吾が1992年に発表した小説が原作のミステリー映画『ある閉ざされた雪の山荘で』。重岡大毅を主演に迎え、間宮祥太朗、中条あやみ、岡山天音、西野七瀬、堀田真由、戸塚純貴、森川葵など、実力派若手俳優が脇を固める。

トリックや人物描写の複雑さから「映像化は不可能」と言われていた本作が、飯塚監督により令和に馴染むように調整されている。30年以上前に生み出されたとは思えない斬新な展開と結末に目が離せない。

本記事では、事件の真相から、原作との比較、そしてもう一つ考えられる結末を解説・考察する。

ある閉ざされた雪の山荘で』(2024)あらすじ

ある閉ざされた雪の山荘で

劇団「水滸(すいこ)」に所属する6人と、1人の外部の役者に届いた招待状。それは、4日間の合宿を通して、新作舞台の主演を選ぶ最終オーディションだった。与えられたシチュエーションは、“大雪で外との連絡手段が閉ざされた山荘”。7人はシナリオもわからずに身を委ねると、一夜ごとに参加者が殺され消えていく連続殺人事件が発生する。“出口のない密室”で起きていく恐ろしい事件。これは本当にシナリオなのか? それとも実際に発生している連続殺人事件なのか。彼らを待ち受ける結末は?

以下、ネタバレを含みます。

異質な空間で何が起きた? ストーリーを解説

4日間の合宿の間に行われるオーディションでは、日が進むごとに連続殺人事件が発生する。この項では、日を分けて何が起こったのかを解説する。

1日目、“ある閉ざされた雪の山荘”に集められた役者たち

劇団「水滸」の次の作品の最終オーディションに招かれた7人の役者たち。集められたのは、笠原温子(堀田真由)、元村由梨江(西野七瀬)、中西貴子(中条あやみ)、雨宮京介(戸塚純貴)、本多雄一(間宮祥太朗)、田所義雄(岡山天音)、久我和幸(重岡大毅)。久我のみ、劇団「水滸」の所属ではない。ペンションに着くと劇団の主宰・東郷から、シチュエーションについてメッセージが。「大雪で閉ざされた山荘」という架空の密室が7人に与えられる。半信半疑で、ペンションで時間を過ごし始める。

2日目、笠原温子の失踪

朝、リビングに集まると「笠原温子が首を絞められて殺された」という設定のメッセージが東郷から伝えられる。だがそこに笠原の死体はない。残された6人は、実際に殺人は起こったわけではなく、次の作品の設定が連続殺人事件で、1人目の被害者が笠原だったのだと納得する。部外者だからという理由で田所から犯人と疑われた久我は、アリバイ作りのために本多と同じ部屋で寝ることを選ぶ。

3日目、元村由梨江の死と謎の血痕

続いて、元村由梨江が花瓶で殴打され殺された、という設定のメッセージが東郷から伝えられる。そして凶器と思われる花瓶には本物の血痕が。次第に5人は本当に事件が起きているのではないか、犯人は誰なんだと怯え始める。変わらず久我は田所から犯人として疑われるも、アリバイを共に作ったはずの本多はなぜか久我を庇ってくれない。

最終日、雨宮京介の死

次は雨宮が首を絞められて殺される。警察に連絡しようとする本多に、田所はある動画を見せる。実は、3日目の夜は本多以外の全員が、同じ部屋で過ごしており、雨宮を殺せるのは本多だけだったのだ。しかし、2日目の夜を久我とともに過ごした彼に、元村は殺せない。では、2日目の笠原と3日目の元村を殺したのは誰なのか。

この不自然な連続殺人事件には、隠された真相と一人の女性の恨みが込められていた。

事件の真相は? 物語を形づくる「三重構造」

劇団「水滸」には、麻倉雅美(森川葵)という名女優がいた。しかし彼女はオーディションに落ちており、その後、交通事故で下半身不随になっていた。

彼女の交通事故のきっかけを作ったのは、笠原、元村、雨宮であった。3人はオーディションに落ちた麻倉のもとに励ましに訪れるも、ドライブ気分の小旅行のようなもので麻倉の怒りを逆撫でしてしまう。さらには笠原は東郷と身体の関係を持ち、役を手に入れていたことが発覚する。麻倉と笠原は揉み合いになり、止めに入った雨宮は倒れ込んで目を怪我してしまう。

そして、麻倉宅を出た後、笠原は帰り際に「雨宮が目を怪我したために事故を起こした」と、麻倉へ嘘の電話をする。この電話で足を止めた麻倉は運悪く車にはねられ、下半身不随になってしまったのだ。

7人をペンションに招いたのは、東郷ではなく麻倉と麻倉の復讐を手助けした本多だった。麻倉は部屋に設置されたカメラや盗聴器でずっとペンションのなかを観察し、自分を下半身不随にした3人が殺されていくのを見ていたのだ。

しかし、本多は麻倉を人殺しにしたくなかった。彼女にまた舞台に戻って欲しいという想いがあった。本多は笠原、元村、雨宮に麻倉のシナリオを渡し、殺される姿を演じてもらっていた。久我とのアリバイを作っていた2日目の夜に元村を殺す姿を演じたのは、雨宮だったのだ。

この事件は、①東郷によるオーディション、②オーディションを偽った麻倉による連続殺人事件、そしてそれをわかった上で③犯人と被害者を演じる本多たちという、三重構造の事件になっていたのだ。

原作小説の結末と比較して考える「麻倉の救い」

本作と原作小説との大きな違いは結末にある。映画では、本多が笠原、元村、雨宮を殺していなかったことを知った麻倉は、自殺しようと刃物を自分に突き立てる。どんなに最悪な状況でも生きていてほしい、車椅子でも演技を続けてほしいと説得をして、麻倉を止める。そして場面は舞台上へ。久我は自分たちに起きた出来事を脚本として完成させ、劇団「水滸」の新作舞台へと仕上げた。

小説では、役者を辞めようとする笠原、元村、雨宮を静止し、「次に自分ができることを見つけなければ」と決意する麻倉だったが、映画では再び舞台上へと舞い戻るのだ。本作を小説と比較すると、麻倉を下半身不随にした笠原たち、凶行に及ぼうとした麻倉が救われるラストとなっている。

考えられるもう一つの結末。果たしてこれは演技か、事件か。

さて、原作小説との比較すると、事故の後、恨みを持った麻倉が再び舞台に舞い戻る、という救いが色濃くでたストーリーであると読み取ることができる。その一方で、もう一つの可能性も頭をよぎる。それは「どこまでが“劇”だったのか」だ。

作中には、演出にいくつか非現実な印象を受ける箇所があった。例えば、話が進むたびナレーションのように響く東郷の声や、字幕のように壁に映し出される文字、度々登場するペンションの間取り図の上での演技など。そして違和感を後押ししたのが、物語の後半。画面がペンションから舞台へ移行する際の麻倉の芝居がかった台詞に、すべてが演技だったのではないか、と思わされる。

つまり、久我らがペンションに向かう冒頭のシーンから、真相が明かされるラストまで、観客が観せられていたのは「ある閉ざされた雪の山荘で繰り広げられる連続殺人事件」の劇中劇なのではないか。ペンションで繰り広げられていたと思っていた事柄は、最初から久我脚本の舞台劇であり、「三重構造」をさらに包み込む「四重構造」の物語だったのかもしれない。

もちろん、先述の通り原作小説では麻倉が劇に復帰する描写はないので、この解釈も映画オリジナルの展開といえる。「果たしてこれは演技か、事件か」という通り、登場人物たちの行動から物語まで、どこまでが本当なのかを探る楽しさが今作の肝だ。「救い」と捉えるか、「すべてがフェイク」と捉えるか、考え方によって表情を変える面白さを生んでいる。

演技力が試されるミステリー作品として、若手俳優の芝居が贅沢に楽しめる一作。ほかにも令和ならではの技術を反映させた演出など、細かな変更箇所がある。小説と合わせて見るとさらに楽しむことができるだろう。

(c)2024映画『ある閉ざされた雪の山荘で』製作委員会 (c)東野圭吾/講談社

*2024年1月13日時点の情報です。

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