【ネタバレ】映画『インフィニティ・プール』結末の意味は?タイトルが持つ意味とは?衝撃のリゾート・スリラーを徹底考察

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omonthy

“性癖”に刺さるリゾート・スリラー『インフィニティ・プール』をネタバレありで徹底解説。

デヴィッド・クローネンバーグを父に持ち、自身も『アンチヴァイラル』(12)『ポゼッサー』(20)など独特の世界観に溢れた作品を送り出すなど、カルト的な人気を誇る鬼才ブランドン・クローネンバーグ監督。長編第3作となる今作は取り返しのつかない転落と倒錯が描かれる。

本記事では映画『インフィニティ・プール』を解説する。

映画『インフィニティ・プール』(2023)あらすじ

高級リゾート地として知られる孤島を訪れたスランプ中の作家ジェームズは、裕福な資産家の娘である妻のエムとともに、バカンスを楽しみながら新たな作品のインスピレーションを得ようと考えていた。ある日、自身の大ファンだという女性ガビに話しかけられたジェームズは、彼女とその夫に誘われ一緒に食事をすることに。意気投合した彼らは、観光客の侵入を禁止されている敷地外へとドライブに出かける。それが悪夢の始まりになるとは知らずに……。

※以下、『インフィニティ・プール』ネタバレを含みます。

アイデンティティと人間性の連続についての物語

本作は休暇で訪れたリゾートで主人公・ジェームズが罪を犯したことを皮切りに、自身のクローンを作り、代わりに罰を受けさせることによって自我が揺らいでいく物語である。単純明快なように見えて、それが何を表現しているのか、その解釈には大幅な余地がある。その部分を紐解く鍵として、監督のブランドン・クローネンバーグは制作についてこのようなコメントを残している。

もともと短編小説として2013〜2014年頃に書き始めたものの、完成させることができませんでした。その内容はちょうど映画の最初の処刑シーンでした。男が自分自身の分身が処刑されるのを見るという物語で、その分身は完全に彼そのもの。彼のすべての記憶を持ち、自分の犯した罪に対して罪悪感を感じている。それはアイデンティティと罰、そして罪悪感についての話でした。それが拡張して『インフィニティプール』の機能となり、そこにリゾートや他のキャラクターが加わった。そのシーンから基本的にプロットが構築されました。
引用元:https://screenrealm.com/infinity-pool-interview-director-brandon-cronenberg/

監督コメントからもわかるように本作はアイデンティティの問題を取り扱っており、主人公の自我が揺れ動かされることに焦点が当てられている。さらに、監督はこのようなコメントも残している。

アイデンティティと意識は考えるのが面白いテーマだと思っています。それが私のライティングに影響を与えているのかもしれません。しかし、「パフォーマンスとしてのアイデンティティ」という考え方は、『ポゼッサー』の中心的テーマかもしれません。一方、『インフィニティ・プール』はそれよりも、何が人間を継続的に人間たらしめるのか、についてです。
引用元:https://www.fangoria.com/original/exclusive-interview-brandon-cronenberg-on-infinity-pool/

同監督の前作『ポゼッサー』(20)は、主人公がターゲットの脳を乗っ取って暗殺を実行するストーリー。主人公は乗っ取り先の意識化で抵抗にあい、意識が混濁してしまう様子が描かれていた。

“アイデンティティの揺らぎ”という意味では『インフィニティ・プール』と『ポゼッサー』は似たテーマを描いているようにも思える。しかし、本作では「アイデンティティがどこに存在するのか」ではなく、「自己の連続性」を主題にしている。つまり、クローンを処刑し自身の罪をなかったことにしたジェームズは、どこまでジェームズと言えるのか、ということなのだと思う。

これが監督が『インフィニティ・プール』で表現しようとしたことの前提として、物語をさらに考察していく。

引き込まれていく地獄のリゾート

本作の特徴となるのは、ユニークなストーリーテリングである。表現される映像ビジュアルによって、物語を象徴的に語ることで、観客も「地獄のリゾート」へと引き込まれていく。

まず、最初の印象として大きく残るのは映画冒頭、ジェームズが起きてからリゾート内を歩く場面だ。リゾート内を映しながらカメラが回転していくことで、世界が揺らぐような感覚に陥る。主人公がこれから巻き込まれることの重大性、世界の揺らぎを思わせる演出であり、本作に異常性を持たせている。

また、リゾートから敷地外に出るにつれ、車のプレートや標識、民家の壁などにかかれた現地の文字もその役割を果たしていたように思う。徐々に増えていく文字に、鑑賞者は無意識のうちにセーフティーゾーンを踏み外し、言葉も通じない地へ迷い込んでしまったような錯覚を覚えたのではないだろうか。

さらには、「ウンブラマク」と呼ばれる雨季前の祭典と、劇中内時間との重ね合わせも面白い。物語序盤、ジェームズの心は、何かを渇望し渇ききっている状態であった。まさに劇中で彼自身が語っていた「白砂のような死んだ脳じゃ自分で食べるのも無理」という状態であったと考えられる。しかし、物語が進むに連れて、乾季の状態を脱し、雨季に入る直前の“祭典”に興じていくことになる。“エキの仮面”を被り、犯罪行為に及んでいく彼の姿は、雨季を前にして「ウンブラマク」に興じる様を直接的に表現しているようだった。

ジェームズの抱える不能感

本作で最も重要となるのは、ジェームズがどこまで自覚的にガビらの罠に嵌っていったかである。初めは街にも出られなかったジェームズは、冒頭で彼が言っていた「白砂のような死んだ脳じゃ自分で食べるのも無理」な状態に陥っていた。これは資産家の娘である妻・エムの力によって、全く自著が売れていないにも関わらず作家を気取っていることに対して、自らも負目を感じていたのかもしれない。ジェームズのキャラクター造形については監督がインタビューでこのように語っている。

ジェームズは、厳密に言えば映画の中で私の代わりではないし、彼が私の分身というわけでもないですが、その側面はあります。ある種の自己嘲笑的な部分がある。そのキャラクターを通じて自分自身を茶化しています。私の最初の映画と二番目の映画の間には8年の間隔がありました。どうしても二本目の映画を作ることができなかった。典型的なインディー映画の問題で、資金調達やキャストの確保ができなかったのです。その8年間にはかなり暗い時期があり、自信喪失と不安でいっぱいでした。だから、自分の悪評を読まされているキャラクターは、自分自身をからかうのに良い方法のように思えました。
引用元:https://screenrealm.com/infinity-pool-interview-director-brandon-cronenberg/

スランプに陥っていたジェームズの内には常に不能感があった。それは、エムへの劣等感でもある。物語終盤、彼の肥大しきった自我の中で見る幻影の中にエムの姿があることから、エムの影響がいかに強かったかを伺うことができる。だからこそリゾート内で得られる全能感が彼を支配していたのかもしれない。そこを自覚しているからこそ、ジェームズは自らの手でパスポートを隠し、ガビ達の策略に嵌っていった。つまり、本作は妻と一緒にいることによって、自覚している弱い自分から脱却するための“強さ”を求めていった結果、起こった悲劇なのである。

ガビの母性と真の目的

本作ではイメージカットが多用される。クローンを作成する場面やドラッグの使用場面等で、細胞の分裂や性器から何かが飛び出してくるような“母なるもの”を連想させる映像が多く差し込まれていることから、本作では“母性”も重要なキーワードとなることがわかる。ジェームズは、“自然な失敗”を得意とするガビの演技力によって泥沼に嵌っていき、クローンを処刑するごとに生まれ変わっていく自分とガビへの好意を母性と混同させていったようにも思える。物語終盤、これまでの“弱さ”に打ち勝ったジェームズが、ガビの腕の中でまるで子供のように乳房に吸いつくことからも、そのことが見て取れる。

では、ガビ自身の目的は何だったのか? 作品を読んだこともないジェームズにわざわざ近寄り、罠に嵌めていったのは、単にリゾートでの休暇期間に目についた人間をおもちゃにしたかっただけのようにも見える。しかし、それでは最後にジェームズを抱きしめ赤子のようにあやしていた説明がつかない。逆説的だが、最後に母のような一面を見せたガビから考えると、ある可能性が浮かんでくる。それはガビに子供がいないことだ。先述したようにジェームズは大きな不能感を抱え、弱く、妻の力なしでは生きていくこともままならないような存在である。それは、言い換えれば子供と変わらない。つまりは、そんなジェームズに対しガビの母性が働いたのではないか。母として、子が成長し、自立していく姿が見てみたい。子供のいないガビにはリゾートでの休暇期間中が、唯一“母”になれる時間だったのではないだろうか。かなり歪んだ形の“母性”こそ、彼女の真の目的だったのだ。ジェームズを賞賛し、高揚感を与え、そして全てを奪い取る。この行程によりジェームズを“何もない状態”、つまり赤子にすることに成功した。

タイトルに込められた意味と結末は?

牧場でガビらに追い詰められた際、ジェームズは過去の自分と対峙することになる。これまで犯してきた罪を背負い、妻から自立することもできない弱い自分に打ち勝つことで、ジェームズはようやく自身の足で立つことができる。しかし、過去の自分と向き合うというのは、決して気持ちの良いものではない。現に家畜のような姿となった自分と戦うシーンは強烈なゴアシーンとなっていた。

そして、休暇期間を終え、一行はそれぞれの日常へと帰っていく。しかし、ジェームズだけはその場から動くことができない。弱い自分に打ち勝ったはずなのに、あの結末を疑問に感じた人もいただろう。

ここで思い出してほしいのが最初の章で触れた監督のコメントである。監督がこの作品で表現しようとしたのはアイデンティティという点において「何が人間を継続的に人間たらしめるのか」だ。最初こそ自身の罪を背負うクローンを殺していたジェームズだが、最後には家畜のような姿をした自分(=自覚する弱い自分の姿であり、自身の本質)のクローンを殺してしまったことで、“ジェームズ”としてのアイデンティティを彼は見失ってしまったのである。アイデンティティを失ってしまった彼の心は、タイトルが現す通り、雨季のリゾート=“インフィニティ・プール”の中に閉じ込められてしまったのではないだろうか。

 

(C)2022 Infinity (FFP) Movie Canada Inc., Infinity Squared KFT, Cetiri Film d.o.o. All Rights Reserved. 

※2024年4月12日時点の情報です。

※最新の配信状況は、各動画配信事業者の公式サイトにてご確認ください。

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