【映画監督の仕事の話】「映っていないけど、映っている」を意識して映画と向き合おう

映画館に頻繁に出没する横分けメガネゴリラ

YMG

漫画や小説などの書物や音楽などを選ぶ際、多くの方がその“作り主(アーティスト)”を意識されると思います。

例えば漫画は、絵の描き方や人物の造形に「一貫性」がありますし、ボーカルのある音楽も「他のアーティストとの違い」をその歌声ではっきりと掴むことができます。

物理的に作り主の「仕事」が明瞭になっている上記したような媒体において、作り主を意識するのは容易といえます。

一方で映画ではどうでしょう?映画における“作り主”は監督ですが、実際に映っているのは俳優ですし、構図やカメラワークを作り出しているのはカメラマンです。北野武監督やシャマラン監督のように自ら出演をする監督は多くはないので、音楽におけるボーカルのように監督の物理的な「仕事」を意識するのは簡単なことではありません。

とは言っても、意識することは可能です。監督の「仕事」を意識すると、映画はより一層味わい深いものになるので、それを簡単にではありますがご紹介したいと思います。

監督の二つの仕事

監督が現場で行う仕事は山ほどありますし、監督によってそのやり方は千差万別です。その一方で全ての監督が避けられない仕事が少なくとも二つあります。

まず、撮影台本が完成しスタッフが決定すると、監督は完成像のイメージを各部スタッフに伝えます。

それを受けてスタッフは完成像を物理的に準備し整えます。美術部は、セットの完成図を見せ、衣裳部はメインキャストのシーンごとの衣裳を見せ、制作部はロケ地の候補を提示します。それらは美術打ち合わせ、衣装合わせ、メインロケハンという行事を繰り返し、監督が一つひとつをジャッジして完成像へ近付けていきます。

この一連のイメージ&ジャッジの作業は、上記した準備段階だけでなく撮影現場でも行われます。俳優にイメージを伝えて芝居をやってもらい、ジャッジ。カメラマンにイメージを伝えてカメラポジションや構図が決まったら、ジャッジ。

イメージ&ジャッジを無数に繰り返すことで映画は完成するので、上映される映画の最初の1秒目のシーンからラストカットの1秒まで監督のイメージ&ジャッジした「仕事」映っていないけど映っていると言えます。

次では具体的にどのような形で「仕事」が具現化されているかを探ってみます。

監督の映っていないけど映っている仕事

ロボコップ』という映画をご存知でしょうか。あまりにも有名なのであらすじは割愛しますが、監督はオランダ出身のポール・バーホーベンです。

ロボコップ

劇中でバーホーベン監督の「仕事」が最もわかりやすく意識できるのは、登場人物たちの死に際の描かれ方にあります。

アイアンマン』くらいキャッチーで子ども向けの面構えでありながら、登場人物たちの死に際は『プライベート・ライアン』さながらに目を背けたくなるほど残虐で悍ましく、痛々しいのです。

監督は幼少期を第二次世界大戦下のオランダのハーグ市で過ごしましたが、街は味方である連合軍によって破壊され、瓦礫の山となり道端にはバラバラの死体がゴロゴロ転がっていたそうです。

残虐な戦争と死を間近で見て育った監督に、嘘っぱちの「死」や、社会が決めた常識やモラルに収まる描写が描けるはずがありません。

『ロボコップ』の現場ではカメラが壊れるほどの爆薬を使い、銃弾で人が死ぬ時は、蜂の巣になった死体がその衝撃で踊るほどの描写にし、その仕事には徹底した残虐性で一切の容赦もないのです。

『ロボコップ』の後も一見楽しげに見えるSF活劇『スターシップ・トゥルーパーズ』を、戦争を擁護する者を鼻で笑うようなシニカルな映画に仕上げ、透明人間映画『インビジブル』では社会的に裁かれない環境下(戦争と一緒)で人がいかに残酷非道になるかを強烈な描写で描いています。

表面的に描かれている事柄はどれも異なりジャンルも違う一方で、監督がイメージ&ジャッジした「仕事」にははっきりと一貫性があり、「映っていないけど映っている」バーホーベン監督を意識する事ができるのです。

スティーブン・スピルバーグ監督、アン・リー監督、コーエン兄弟監督、日本だと橋口亮輔監督や是枝裕和監督など枚挙に暇がありませんが、いずれの監督も「一貫性」があり「他のアーティストとの違い」があるのです。

監督の仕事を知って、どうなる?

「映っていないけど、映っている」ことが、監督のイメージ&ジャッジした「仕事」であることをご理解頂けたでしょうか。そこには他の媒体と同じように、監督の何らかの意図や考え、信念や願望が作品全てに宿っています。

「映っていない」からこそ「映っている」ことを通して、なぜそれを監督はイメージ&ジャッジしたのかを逆算・想像する事で、「映っていない」監督の意図や考え、信念や願望に触れることができます。それはいうならば映画を介して監督と非言語でコミニュケーションを取るようなものです。

「映画の終わりが、実は始まりなんだ」

小津安二郎監督はそうおっしゃっていますが、映画鑑賞が一過性で終わる事なく、観客の中で何かが始まることを映画監督は望んでいるのかもしれません。

そうやって映画と向き合えばたとえ2時間で終わる映画も、頭の中で延々と続くのではないでしょうか。

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  • 黒川
    4.4
    吹き替えをながら見。 これ僕の生涯No.1ってくらい好きな映画で、これのせいで暴力こそ至高みたいなやべえ思考になっちまった感ある。ある意味僕のルーツ的作品。 「デトロイト」で大分心が荒んだので中和しようとしたら大失敗した。化学反応起こして死にかけた。 2010年のデトロイトが舞台。荒廃し汚職にまみれ、警察はオムニ社と提携し傘下の組織となっていた。新しく配属されたアレックス・マーフィーは、バディのアン・ルイスと共に早速悪党のアジトへと向かう。 多分初めて観たのは5歳くらいの時だったと思う。テレビ放映されているものを観たのが最初だった。当時、僕の曽祖父が亡くなったばかりだった。可愛がってくれた彼が棺桶に入っている姿を今でも覚えている。衝撃的だった。そしてそれが初めてのきちんと覚えている死との遭遇だった。 実は青い目の人が苦手だ。それはピーター・ウェラーの美しい瞳のせいだ。襲撃を受け搬送されるマーフィー。彼の生気を失った瞳が画面に大写しになる。子供心に「彼は死ぬのだ」と思いながら観ていた(ただし子供だったのでマーフィー=ロボコップやんけと思っていたので、大人になって観るまでみんなロボコップの正体を知っていると思っていた。違った)。また彼を撮る角度が僕が棺に入った曽祖父を見た角度と同じだったのが更に死を実感させた。 子供の頃はヒーローものとして大好きな作品だった。たまにテレビ放映されるものを適当に観ていた。大学時代映画にハマり、ちゃんと観てみた。その時に本作の素晴らしさに気づいた。これはキリストの復活の物語をなぞっているのだ。警官という公務員(作中ではオムニ社傘下だが)=パブリックの存在が、個人を取り戻し個人=プライベートの存在となり復讐に燃える。オムニ社の社運をかけた一大プロジェクト、休みのいらない警官が救世主であることを拒否した瞬間、彼は石に打たれ追放されるのだ。鞭打たれ、水の上を歩き、蘇生し、また人々を救済しに戻ってくる。いや、彼は己を救済するのだ。 そんなわけで大好きな作品なのですが、「デトロイト」観てるとこんな映画作りたくなるわけがよくわかった。治安が悪く常に何かが壊される。警官は腐敗し街を支配する大きな会社が更にデルタシティ構想などという、人を分けるようなことをしている。ある意味で本作は「メトロポリス」にも通じている作品だったのだ。黒人白人黄色人種の別はなく、街は壊され警官も時に役に立たない。悪党には平気で殺されるし会社に飼われている。それが少し進んだ「デトロイト」だった。黒人だけが殺されるのではなく等しく命を失うかもしれない。その救世主となるべく犠牲に捧げられた男の復讐劇。かっこよくて美しい。本当か?
  • ウェルテル
    2.8
    敵方に対する容赦が全くないんだけれども、それは法的にOK?
  • hanapensoda
    3
    good
  • Dharamsala1467
    3.1
    さすがヴァーホーヴェン。 俺たちのポールヴァーホーヴェン。 グロさがまさにヴァーホーヴェン 良いテーマソングですね。
  • タケオ
    4.6
     あの勇ましいテーマ曲を聴くだけでいつでも心が高鳴る。端的にいって『ロボコップ』(87年)が映画史に残る最高の映画の一本であることは論を俟たない。「近未来のデトロイトを舞台に、ロボットの警官が悪と戦う」という聞いただけでは幼稚にすら思えるプロットながらも、そこには当時のレーガン政権に対する鋭い風刺や露悪的なブラック・ジョーク、果ては「人間」という存在に対する深い考察がある。そして何よりも、見るものを圧倒する度を超えたバイオレンス描写は、当時のハリウッドに衝撃を与えた。  エドワード・ニューマイヤーとマイケル・マイナーが執筆した『ロボコップ』の脚本は、「バカバカしすぎる」という理由でハリウッド中から敬遠され、たらい回しにされていたものだった。ポール・ヴァーホーヴェンも『ロボコップ』の脚本が送られてきた時には、読みもせずにゴミ箱へ捨ててしまったという。しかし、妻のマルティーヌがそれをゴミ箱から拾い上げ、「とりあえず読んでから断ったら?」とアドバイス。そのひと声によって、『ロボコップ』の企画はようやく動き始めた。『ロボコップ』ファンは誰1人として、マルティーヌ・ヴァーホーヴェンに足を向けて寝れないのである!  セックスとバイオレンスと下衆で軽薄な人間の姿を描かせたら天下一品のヴァーホーヴェンだが、そんな彼の情け容赦のないタッチは本作でも絶好調。本作の登場キャラクターも、後にロボコップとなる主人公マーフィ(ピーター・ウェラー)とその相棒ルイス(ナンシー・アレン)を除いては、ほとんど全員が同情の余地すらない最低最悪のゲス野郎ばかりだ(マトモな人間はせいぜい署長ぐらいだろうか)。残酷なまでに資本主義の原理を体現する巨大企業オムニ社の面々などももちろんだが、何よりも本作最高の悪役は、マーフィを殺害しロボコップへと変身させた張本人クラレンス・ボディッカー(カートウッド・スミス)である。クラレンスは、プライド.思想.美学といった類のものはまるで持ち合わせていない。あるのは果てなき欲望と暴力衝動のみ。だからゲーム感覚で警官もぶっ殺すし、いざ追い詰められたら「俺は雇われただけだ〜‼︎」と平気で命乞いだってする。ランダムに暴力を振るうだけの、その場しのぎの短絡的な生き様。一周まわって天晴れとしかいいようがない。『ダイ・ハード』(88年)のハンス・グルーバー(アラン・リックマン)とも並ぶ、映画史上最高の悪役の1人といっても過言ではないだろう。  クラレンスについて長々と書いてしまったが、もちろん『ロボコップ』は主人公マーフィについての物語である。クラレンス一味に惨殺されたマーフィは、オムニ社の手によってロボコップとして復活する。まるでキリストのように。「KSCオート9」というどでかい銃で容赦なく悪を撃ち抜くメタリックなヒーローこそが、ポール・ヴァーホーヴェンが考えるキリスト、すなわち「アメリカン・ジーザス」なのだ。しかしもちろん、マーフィは「神」ではない。マーフィをロボコップとして蘇らせたのは'神秘的な力'ではなく、資本主義を最悪の形で体現した巨大企業だ。キリスト教が主流のアメリカに対して容赦なく喧嘩を売っていく骨太なスタイル、正にポール・ヴァーホーヴェンの真骨頂である。  ロボコップとなったマーフィは次々と悪を成敗していくが、自分の中に僅かに残された「人間の記憶」に苦悩することとなる。『ロボコップ』は単純な勧善懲悪のSFアクションではなく、マーフィという1人の人間の「アイデンティティ・クライシス」についての物語でもあるのだ。犯罪者や巨大企業が暗躍する荒廃したデトロイトの中で、マーフィは最後まで戦い続ける。自らの「アイデンティティ」を取り戻すために。『ロボコップ』はありったけの風刺やブラック・ジョークを詰め込みながらも、「実存」という普遍的なテーマをソリッドなタッチで描き出した真に素晴らしい傑作だ。オムニ社の会長から「いい腕だ。名前は?」と問われたマーフィが短く返答するラストの切れ味は、もう完璧としかいいようがない。
ロボコップ
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