映画『Mank/マンク』歴史的傑作『市民ケーン』にまつわる舞台裏を徹底考察【ネタバレ解説】

ポップカルチャー系ライター

竹島ルイ

“マンク”の愛称で知られる脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツの目を通して、不朽の名作『市民ケーン』の舞台裏を描いた『Mank マンク』。鬼才デビッド・フィンチャーとオスカー俳優ゲイリー・オールドマンがタッグを組んだ、Netflixオリジナル映画だ。

という訳で今回は、『市民ケーン』のオマージュをふんだんに散りばめた『Mank マンク』についてネタバレ解説していきましょう。

映画『Mank マンク』(2020)あらすじ

時は、1940年のハリウッド。アルコール依存症の脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツは、若くしてハリウッドの天才と称されるオーソン・ウェルズから、映画『市民ケーン』の脚本の執筆を依頼される。物語の主人公チャールズ・フォスター・ケーンは、明かに実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていた。ハーストを揶揄したこの作品が映画化されれば、彼の怒りを買うことは必至。しかしマンキーウィッツはそのリスクを背負ったうえで、脚本を書くことを決心する。果たして、その理由とは何だったのか?現在と過去を行き来しながら、少しづつその謎が解き明かされていく…。

※以下、映画『Mank/マンク』のネタバレを含みます。ご注意ください。

「火星人襲来」で全米をパニックに陥れた、天才オーソン・ウェルズ

Mank マンク』は『市民ケーン』(1941年)の製作を巡る物語なのだから、この歴史的傑作についての予備知識がないと、正直今一つ話が分かりにくい。まずは、本作の監督・製作・脚本・主演を努めたオーソン・ウェルズについて解説していこう。

ウェルズは元々「マーキュリー劇場」という劇団を主宰していた舞台人で、シェークスピアを題材にした実験的な芝居で高い評価を受けていた。その後はラジオドラマに進出して、数々の作品を発表。1938年にはH.G.ウェルズの『宇宙戦争』を翻案したドラマを放送し、あまりにも緊迫感のある内容だったことから、「本当に火星人が襲来した!」と全米をパニックに陥れた。子供の頃から人を驚かすことが大好きだったというウェルズの、面目躍如ともいうべきエピソードだろう。

そんなオーソン・ウェルズの圧倒的才能に目をつけたのが、映画スタジオのRKO。彼らは、まだ映画監督未経験のウェルズに対して、前例がないくらいにクリエイティヴの自由を保証して(そこには最終的な編集権、いわゆるファイナル・カットも含まれていた)、映画製作の契約を交わす。

当初オーソン・ウェルズの記念すべき監督作第一弾として考えられていたのが、ジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』の映画化。しかしアフリカのロケーションに巨額の日数と予算がかかってしまうことから企画は困難を極め、結局頓挫してしまう( 後にフランシス・フォード・コッポラが舞台をベトナム戦争に移し替え、『地獄の黙示録』(1979年)として公開する)。

ウェルズは次に、盟友ジョセフ・コットンを主演に迎えて、アメリカを代表する実業家ハワード・ヒューズの生涯を描こうと考えた。しかし最終的にウェルズは、ヒューズの代わりに新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの生涯を描くことを決意する。

ハーストは、「コスモポリタン」、「エスクァイア」、「ヒューストン・クロニクル」など多くの雑誌・新聞・放送局を傘下におく巨大コングロマリット「ハースト・コーポレーション」の創業者。新聞の売り上げを伸ばすために米西戦争を誇大的に報じた、という逸話を残すほど支配的で強引な人物として知られている。妻と別居して30歳以上も年齢の違うマリオン・デイヴィスを愛人にするなど、スキャンダルにも事欠かなかった。映画の題材にはピッタリな人物ではないか!

かくして、天才オーソン・ウェルズの監督第1作『市民ケーン』は本格的な製作に入ることになる。

新聞王ハーストの妨害にあった不遇の名作『市民ケーン』

ウェルズの依頼を受けて、シナリオを書き上げたのが“マンク”ことハーマン・J・マンキーウィッツ。彼は実際にハーストとその愛人マリオン・デイヴィスとの面識があり、その経験を踏まえて物語を膨らませていく。

ちょっと話題がそれるが、世界的名作『市民ケーン』の脚本は、マンクの手によるものなのか、オーソン・ウェルズの手によるものなのか、という問いは映画研究者の間で長く論争されてきた。ウェルズは学生時代に、人々の証言を通してある登場人物の人生を探る『マーチング・ソング』という戯曲を書いているが、この構成は明らかに『市民ケーン』の原型と言えるもの。その一方で、著名な映画評論家ポーリン・ケイルは、「レイジング・ケイン」(Raising Kane)というエッセイで、「脚本を全て書いたのはマンキーウィッツで、オーソン・ウェルズは一行も書いていない」と主張している。

現在では、スタジオのメモや電報などを調べた結果、マンクとオーソン・ウェルズともに脚本に大きく貢献したと結論づけられている。二人は撮影中も脚本をブラッシュアップし続け、それが組み合わさってこの名作は誕生したのだ。しかし実際には、ウェルズは数千ドルを支払ってマンクからクレジット権を買い取っていた。脚本家協会がそれを許さなかったことから、ウェルズがマンクから金を取り戻そうとした時には、すでに金を使いきっていたという逸話が残っている。

紆余曲折を経て完成したシナリオは、ウェルズ好みのシェークスピア的悲劇に仕上がっていた。物語は、巨万の富を築いた新聞王チャールズ・フォスター・ケーンが、「バラのつぼみ」という謎の言葉を残して息を引き取ったことに始まる。記者のジェリー・トンプスンは、この言葉が彼の謎に満ちた生涯を解き明かすヒントになると考え、親交のあった人たちを訪ねて調査を始める。やがて新聞王として権力を欲しいままにしてきたケーンの、孤独で空虚な人生が浮き彫りになっていく…。

明かに自分をモデルにした人物を、不道徳で倫理観のない金の亡者に仕立て上げられたハーストは、烈火の如く激怒する。映画に登場するスーザンという役柄が、長年の愛人マリオン・デイヴィスであることが明白なのも許せなかった。ハーストは「ウェルズは共産主義者だ!」と非難して映画公開を徹底的に妨害。メディアの頂点にいた彼の報復を恐れて、『市民ケーン』上映を拒否する映画館も続出したという。

第14回アカデミー賞でも、計9部門ノミネートのうち受賞したのは脚本賞の1つのみ。批評家からは高い評価を得ていたものの、『市民ケーン』は正当な結果を得ることができなかった。アメリカ映画協会が1998年に発表した「アメリカ映画ベスト100」で1位、カイエ・デュ・シネマが2008年に発表した「史上最高の映画100本」で1位、英国映画協会が1962年、1972年、1982年、1992年、2002年に発表した「オールタイム・ベストテン」で5回連続1位に輝くなど、現在では揺るぎない地位を築いている本作だが、公開当時は不遇の映画だったのである。

では、『Mank マンク』に登場するその他のハリウッド・レジェンドたちについても、簡単に説明しておこう。

マリオン・デイヴィス(アマンダ・セイフライド

1897年生まれ。ブロードウェイのレヴューでショーガールを務めていたところをハーストに見初められ、愛人となる。ハーストは彼女のためだけのプロダクションを作り、20年で46本にも及ぶ主演映画を撮るが、演技力に乏しかった彼女の作品は全て不評に終わってしまう。

Mank マンク』でマリオンはハーストのことを「パパ」と呼んでいたが、実際に彼女はそう呼んでいた(二人の年齢差は34歳)。また、「バラのつぼみ」はマリオンの秘部を指す言葉と言われている。

ルイス・B・メイヤー(アーリス・ハワード

1884年生まれ。MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の共同創始者。映画プロデューサーとして次々とヒット作を飛ばし、ハリウッド黄金時代を築き上げた。肩書きは副社長だったが、製作部門の最高責任者として配役から脚本まで全てを統括し、絶大なる権力を誇っていた。

その一方でスター俳優を低い給料で働かせるなど、ネガティブなエピソードも多数(『Mank マンク』にも、演説をぶって社員の給料をカットしてしまうシーンが登場する)。喧嘩っ早い性格で、チャップリンと素手で殴り合いをしたという逸話もアリ。

アーヴィング・タルバーグ (フェルディナンド・キングズリー

1899年生まれ。メイヤーの右腕として辣腕をふるった映画プロデューサー。天才少年(The Boy Wonder)のあだ名を持ち、若くしてMGMの製作を仕切っていた。しかし逆にそのことがメイヤーの嫉妬を買うことになり、撮影所のプロデューサーに降格。失意のまま37歳の若さで夭逝する。優れたプロデューサーに授与されるアカデミー賞の「アーヴィング・G・タルバーグ賞」は、彼の業績をたたえて創設されたもの。

デヴィッド・O・セルズニック(トビー・レオナルド・ムーア)

1902年生まれ。『キング・コング』(1933年)、『スタア誕生』 (1937年)、『風と共に去りぬ』 (1939年)などのヒット作を手がけたプロデューサー。作品に口を出すタイプだったため、監督や役者からは疎んじられていた。

ジョセフ・L・マンキーウィッツ(トム・ペルフリー)

1909年生まれ。マンクの弟で、彼も兄と同じくシカゴ・トリビューンの特派員記者だったが、のちに映画界に足を踏み入れる。脚本家としてキャリアをスタートさせたあと、プロデューサーとして数々の大ヒット作を世に送り出し、 『三人の妻への手紙』(1949年)や『イヴの総て』(1950年)ではアカデミー監督賞と脚本賞を受賞。『Mank マンク』では、

「週750ドル?兄貴の半分だ」
「感性が兄ちゃんの半分だから報酬も半分」

というセリフがあるくらいに、偉大な兄の影に隠れてしまった映画人のように扱われているが、実際にはマンクよりも映画史にその名を刻んだ才人である。

ジョン・ハウスマン(サム・トラウトン)

1902年生まれ。オーソン・ウェルズと共に「マーキュリー劇場」を設立した盟友。『Mank マンク』ではウェルズの小間使いのような役回りになっているが、実際には『市民ケーン』製作に奔走する優秀な映画プロデューサーだった。

俳優としても活動し、『ペーパーチェイス』(1973年)では冷厳な大学教授のキングスフィールド役を演じて、アカデミー助演男優賞に輝いている。

かねてから製作を熱望していた、フィンチャー念願のプロジェクト

Mank マンク』は、デビッド・フィンチャーがかねてから製作を熱望していたプロジェクトだった。シナリオを手がけたのは、彼の父親ジャック・フィンチャー。彼は、「ライフ」誌のサンフランシスコ支局長を務めたこともあるジャーナリストだった。

「彼(父)は脚本を書いていたと思いますが、それは’60年代後半のことです。(中略)’90年代に引退したときに私のところに来て、『私にはたくさん時間がある。どんな脚本を読みたい?』と言ってきました」
(Little White Liesのインタビューより抜粋)

デビッド・フィンチャーは『ゲーム』(1997年)の次回作として『Mank マンク』をリストアップし、マンキーウィッツ役にケヴィン・スペイシー、マリオン役にはジョディ・フォスターという配役のイメージも膨らましていた。しかし題材が地味すぎるうえ、『市民ケーン』を模して白黒映画にしたいという要望もスタジオからGOサインが出ず、製作は頓挫してしまう。そこに手を差し伸べたのが、Netflix。彼らはモノクロでの撮影や予算に意義を唱えず、フィンチャーのクリエイティヴを全面的に支援した。フィンチャーは20年以上にわたる雌伏の時を経て、ついにこの映画を撮る機会を得たのである。

よくよく考えてみれば、オーソン・ウェルズとデヴィッド・フィンチャーのキャリアは非常によく似ている。ウェルズはウィリアム・ランドルフ・ハーストという大物を自分の映画で揶揄したが、フィンチャーも『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)で、Facebookの創始者マーク・ザッカーバーグを鼻持ちならない個人主義者のように描いた。21世紀のメディア王がどのようにのし上がったかを、複数の登場人物の視点から描いた本作は、現代の『市民ケーン』とも称されたくらいだ。

フィンチャーが本家本元の『市民ケーン』の舞台裏を描くドラマを撮ることは、ある意味で運命だったのかもしれない。

『市民ケーン』にオマージュを捧げる、’40年代フィルムの質感へのこだわり

Mank マンク』は『市民ケーン』へのオマージュを捧げた映画なのだから、ルックもそれを模したものでなければならない。生来の完璧主義者デヴィッド・フィンチャーは、偏執的なまでに’40年代フィルムの質感にこだわった。高解像度の8Kモノクロカメラで撮影してから解像度を落とし、古いセルロイド・プリントに見られるようなリール交換マークまで入れるという、変態的こだわりぶり。『市民ケーン』で確立されたとされるディープ・フォーカス(近くのものから遠くのものまで、すべてピントが合っているように見せる撮影方法)や、コントラストの強いライティングなども完璧に再現してみせた。

「ビジュアル的には、超高解像度で撮影して、それを劣化させるというのが我々の考えだった。だから、ほとんどすべてのものを撮影して、その時代のルックに合わせるために無茶苦茶なまでに柔らかくしたんだ。同じ感じにするために解像度を2/3まで落として、小さな傷や掘り跡、タバコの火傷を入れたんだ」
(ニューヨーク・マガジンのインタビューより)

デビッド・フィンチャーは映像だけではなく、音響にもこだわった。古いマイクを使って録音することで、耳をそば立てるとジュージューと音が鳴り響いているような、ヴィンテージ・サウンドを創り上げたのだ。ミックスも、複数の音がトラックごとに分かれているスレテオではなく、全ての音がひとつのトラックに収録されているモノラルだ。

「レコーディング・エンジニアのレン・クライスと私は、何年も前からこの映画をUCLAのアーカイブにあるような、もしくはマーティン・スコセッシの地下室にあるような感じにしたい、という話をしていたんだ」
(ニューヨーク・マガジンのインタビューより)

トーゼンのごとく、全体を包み込む音楽も’40年代的なサウンドトラックでなくてはならない。音楽を担当しているのは、フィンチャーとは5度目のコラボレーションとなるトレント・レズナーとアッティカス・ロスのコンビだが、『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)や『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)のようなシンセサイザー主体のエレクロトニカではなく、昔ながらの流麗なオーケストラ・サウンド。これも、『市民ケーン』を手がけた大作曲家バーナード・ハーマンに敬意を表したものだろう。

偏執的なこだわりは、俳優の芝居にも向けられている。テイクを多く重ねることで有名なフィンチャーだが、この映画でも気が遠くなるほどリテイクしまくった。ウィリアム・ランドルフ・ハースト役を演じたチャールズ・ダンスは、こんな証言をしている。

「私たちは次から次へとテイクを重ねていった。そして、ゲイリー・オールドマンがフィンチャーに言ったんだ。『デヴィッド、このシーンは何百回もやったぞ!』ってね。そうしたらフィンチャーはこう返したんだ。『そうだが、これは101回目だ!』」

マリオン・デイヴィスを演じたアマンダ・セイフライドも、何テイクも撮影することについて「確かに大変だった」と正直に語っている。

「ある意味でこれは、『恋はデジャ・ブ』のような気がするわ」

『恋はデジャ・ブ』は、1993年に製作されたビル・マーレイ主演のコメディ映画。同じ一日を何度も繰り返すことになった男性を描いており、まさに何度も同じシーンを繰り返す彼女の気持ちを真っ正直に表していたのだろう。

さて、2021年のアカデミー作品賞も噂される傑作を撮り上げたフィンチャーは、このあとどこへ向かうのだろうか? 本作を完成させたあと、彼はNetflixと4年間の独占契約を結んだことを明らかにしている。オーソン・ウェルズは『市民ケーン』制作後ハリウッドから冷遇される状態になってしまったが、フィンチャーはクリエイター・ファーストを標榜する最強の配信プラットフォームとタッグを組んで、異なるアプローチで新しい傑作を発表することだろう。オーソン・ウェルズの遺志を継ぐのは、この男だ。

Netflix映画「Mank マンク」12月4日(金)より独占配信開始

※2021年1月8日時点の情報です。

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