カンヌ絶賛の深田晃司監督の家族観。『淵に立つ』はあなたの家族への見方を一変させる

人間は社会的な生き物で様々な共同体を形成して生きています。家族はその共同体の中でも特に結びつきの強いものとして一般的には考えられています。しかし、家族というものは、実はとても微妙なバランスの上に成り立っているのかもしれません。

カンヌ国際映画祭ある視点部門で特別賞を受賞した深田晃司監督の最新作『淵に立つ』を見るとそんなことを思わされます。家族というものはなぜ成り立っているんだろう。当然のように一緒に生活しているけど、家族というものを営むこと自体、実は不可思議なことなのではないか。この映画はそんな問いを投げかけてきます。

淵に立つ

小さな金属加工工場を営む一家のもとに、ある日、夫の利雄(古舘寛治)の旧友で服役していた八坂(浅野忠信)が住込みで働くようになります。平凡だが特別不自由のない暮らしを送っていた一家だが、この新たな同居人によって、この家族が抱えていた個々の秘密やズレなどが表面化していくのです。やがて八坂はこの家族に大きな爪痕を残していきます。

ズレも隠し事ももともとあったけれど、それらをやり過ごし、バランスを取りながら家族を営んでいたこの一家が、異物が挿入されたことによって崩れていく様子が、余白の多い映像で綴られていきます。この余白も相当効いていて、家族のメンバーそれぞれが何を考えているのか、緊迫しながら観客は考えることになります。

繰り返し同じ構図から描かれる食事のシーンも参加するメンバーが刻々と変わるだけで、もとの家族が少しずつおかしくなっていることが表現されています。夫婦という間でも知らないことは山のようにあり、それぞれが秘密を抱えてひとつの家族を構成していることが、一人の侵入者によって、あぶり出されていきます

淵に立つは黒い『歓待』

深田晃司監督の出世作『歓待』も似たような構造の物語です。深田監督は家族をモチーフにした物語をよく描くのですが、「家族を描くことを目的しているのではなく、家族の奥にある個々の人間、その孤独を描きたいから」と語っています(参照)。

人は家庭や友人、会社の同僚などと共に、何らかの集団の一員となることで生きていますが、人間は一人で生まれ一人で死んでいく、その本質は孤独であると深田監督は言います。

しかし、孤独を抱えたままでは生きていくことが苦しくなるので家族のような共同体が必要になる、しかし、家族という危ういバランスの共同体は、実はとても脆く、一度壊れてしまえば、むき出しの孤独が顕になります。家族という装置(とその崩壊)を描くからこそ、一層孤独という人間の本質が際立って見えてくるのです。孤独という本質を紛らわす装置として家族は存在しています。しかし、それが綻んだときにこそ人の本質が見えてくるのです。

『歓待』は『淵に立つ』とは対照的に、そうしたテーマをコミカルに描いていました。侵入者となるのは、『淵に立つ』においては侵入される側の家の主を演じていた古舘寛治さんです。下町の小さな印刷屋を営む一家に言葉巧みに入り込み、家族を引っ掻き回しながら、家族それぞれの秘密を握り、印刷所を乗っ取ろうとします。

しかし『歓待』では壊れた家族は、ある事件を経て形の上では元に戻っていきます。それぞれの空虚な部分に気づいてしまった一家の面々、元に戻ったとはいえ以前とは何かが違う。それでも人は家族をよりどころにして生きていかねばならない。そんな余韻が印象的な映画でした。

『淵に立つ』では、侵入者によって壊れた家族のその後も描いています。実は『淵に立つ』の企画はすでに2006年の時点で完成していたそうです。『淵に立つ』の前半部分を膨らまして作ったのが『歓待』で、今回の映画化は深田監督が当時できなかったことへの再チャレンジでもあり、『歓待』の完全版という意味合いもあるでしょう。

本作は続編というわけではありませんので、単体で鑑賞しても十二分に興味深い作品ですが、『歓待』と合わせて見て、その共通性と違いを比べるとより深く味わえるようになるでしょう。深田監督は本作を「黒い歓待」と呼んでいるそうですが、両作には密接な繋がりがあります。

『淵に立つ』では、壊れた家族は壊れたまま、8年の歳月を何とか家族としての体裁だけを保ちながら過ごします。そして一家は再び新しい侵入者(太賀)を迎えることになるのですが、この映画のラストを家族のさらなる「崩壊」と見るか、「再生」と見るかは観客によって意見が別れるところでしょう。同じものを見てもそうして意見がズレていく。これも監督の狙いでしょう。

家族という存在の不思議さに気づかせる映画

淵に立つ2

深田監督には、「家族はあって当たり前のもの」という感覚がありません。むしろ家族というものが成立していることが不思議と捉えており、一見普通の食卓のシーンでも妙な違和感を感じさせます。例えば食卓のシーン、父親の利雄は何も言わずに食べだすのに、娘と妻はクリスチャンでありお祈りをささげてから食事を始めます。

普段は気にしないようなことなのでしょうが、八坂という異物が家族に挿入された結果、気にもとめていなかったズレに気になりだします。当たり前だったはずの日常が当たり前に見えなくなり、映画全体に奇妙な恐怖やスリルを与えます。一歩踏み間違えれば奈落へ転落するかのような恐怖とでも言うべきでしょうか、今まで当たり前に歩いていた道が実は崖っぷちの危険な道だったことを初めて気付かされるのです。まさに「淵に立っている」ような感覚を観客は味わうことになります。

普段の生活ではなかなか獲得することのない視点を、この映画は見せてくれます。劇場を後にした時、なんだか普段の景色すら違って見えてくるかもしれません。当たり前のものが当たり前に見えなくなるような、そんな感覚を与えてくれる素晴らしい作品です。

(C)2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

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    4.3
    『淵に立つ』の様な話の入り方だったので身構えて見たが、笑えるシーンの多いブラックコメディだった。一つの事実で巧みに蹂躙してしまう古舘寛治演じる香川の嫌らしさ。物理的に何かを破壊するとかではなく、人と数を利用して着々とパラサイトしていく過程が嫌だなと思わせる。結局香川の正体が噂程度に語られるだけで不明瞭なのも得体の知れなさを強調していて余計に怖い。あえてシーンの終わりを余分に見せているのが、何かあるんじゃないかと不安を煽る。しかし、皆が踊り狂うシーンは深田監督なりの「受け入れる」ことへの前向きなメッセージの様に見えた。
  • べん
    1.5
    祭りのシーンしか覚えてない。
  • a
    -
    記録
  • あい
    4.1
    20210623
  • そくらてす
    4.3
    上位互換という考え方がはらむ暴力性を描いた作品だと思った。印刷屋を居とする三人家族のプライベートな空間にパラサイトする外部者(これは『淵に立つ』の設定ともよく似ている)は単に異質な乱入者として片付けるには余りに適応がスムーズ過ぎるため、はじめから「彼ら」が印刷屋の住人であって、三人家族(というか夫婦)こそがそこを不当に占領していた存在であったのではないか、という仮定の流れに意識を傾かせてくる。 この恐ろしい想像を最も強く喚起させるキャラが印刷屋の主人の若妻で、幼い娘への英語のティーチング(=母親としての役割)だったり夫の性的な欲求不満の解消(=妻としての役割)もブラジル人のアナベルがうまいことやってくれる上に、お金に関するいざこざも加川が対応してくれて(ここの描写の省略が怖い)、いよいよ印刷屋に「滞在」する意味が外部者の手によって決定的に剥奪されていく虚しくて可笑しな有り様。 この、家屋の立ち退きの抱える動きが「印刷屋のなか」という最小単位の世界の内で人間をコマとして克明に再現されている入れ子的構造が面白い。いっぽうで、建設中のスカイツリーを臨む下町、河川敷のダンボールハウス、という外の舞台設計も、このような暴力性を帯びた互換性に支えられた歪な人間関係の構図を赤裸々に表象しているといえる。 外国に対して薄っぺらな憧れ(?)をもつ義理の妹は外部者の「歓待」にもいのいちばんに従順するようで、その前触れとして、靴を履きながら畳の上へとのぼる、という日本人としてはなかなかに背徳感の漂う行為も(酒に酔っているとはいえ)物怖じせずに取っていく。この文化の排除への寄与のムードそのものが「私」のなかの潜在意識の痛い部分を突いてくるようで、かなり深田晃司味を感じさせる意地悪なキャラ設定だと思った。 ひと騒動を経ての後片付けでラストを迎えるのがカサヴェテス『こわれゆく女』のほっと息ついてのささやかな幸福感を彷彿させもするけど、それだけでは終わらないと言わんばかりにちゃんとモヤモヤも残してくる。代替可能な立ち位置、というものを映画で検討する上で「インコ」と「人間」を同列に扱うその秩序立った"乱雑さ"、さすがとしか。 輪転機、蝉しぐれ、セックスの運動、がもつパターン化された「音」の挿入も不安を煽るにはまあ効果的だった。
歓待
のレビュー(521件)