恋愛には妥協がつきものである。
これは筆者が今作った自作格言だが、どんな場面でも、他人と付き合う以上ある程度の妥協は必要だろう。
しかし、なぜか恋愛映画において妥協が描かれることは、ほぼない。心の中で「それは妥協では?」とツッコんでも、いつの間にか“理解”にすり替わり、美談になっていることもある。
2022年10月14日(金)に公開された『もっと超越した所へ。』は、恋愛における妥協を全肯定してくれる意欲作だ。
本記事では、ネタバレを交えながら『もっと超越した所へ。』を徹底考察していく。
映画『もっと超越した所へ。』のあらすじ
ここに4組の男女がいる。
真知子(前田敦子)は自称・ストリーマーの怜人(菊池風磨)を養い、ギャルメイクに身を包む美和(伊藤万理華)は、大好きな泰造(オカモトレイジ)と幸せな生活を送っていた。ゲイの富(千葉雄大)に恋をした鈴(趣里)はふたりの関係性に悩み、風俗嬢の七瀬(黒川芽以)は客の慎太郎(三浦貴大)と関係を深めつつある。
しかし、女たちは悩んでいた。慎太郎はプライドが高く、泰造は小心者で、富は自分勝手に生きている。怜人にいたっては、働く気すらなかった。
同じ世界に住んでいるが、顔を合わせることもない彼女たちは、ダメ男たちを“超越”することができるのか。それとも、別れるしかないのか……。
※以下、映画『もっと超越した所へ。』のネタバレを含みます。
米から見えてくる女たちの生活
本作は4人の女性がお米と向き合うシーンから物語がスタートする。
日本人にとって、お米は生活に欠かせない食材だ。誰しもが、さまざまな形でお米を食して生きている。それは4人の女性たちも同様だ。まずは4人が映画冒頭で見せた、お米との向き合い方に注目したい。
真知子はスーパーでお米の重さを比較している。この行動は「1回で家まで運べる最重量」を見極めているのだろう。レジ前で袋を2重にしなかった点を見ても、少々けち臭い性格であることが理解できる。鈴は買ってきたお米をガラスの米びつに移しかえ、さらには雑穀米の素を入れて炊いていく。鈴はブレイクした経験のある元子役で、売れなくなった今も、生活レベルを落とすことができないようだ。
美和はパックごはんを食べ、七瀬は仕事の合間に大きめのおにぎりをモグモグする。どちらも食に対して無頓着だが、お米を炊くことすらしない美和と、家で作ったおにぎりを持ってくる七瀬とでは、生活や健康に対する意識が違う。お米をとおして、彼女たちの“生活”が見えてくる、秀逸なオープニングである。
本作とお米の関係は、冒頭のシーンだけではない。意外なかたちで、ラストシーンとも繋がってくる。
コロナ禍に生きる恋人たち
新型コロナウイルスは、私たちの生活を永遠に変えてしまった。多くの死者を出したことはもちろん、“ウイルス対策意識”の違いにより、人々の間に隔たりが生まれたともいえる。当然、恋人たちの間でも、ウイルスをめぐって多くのすれ違いが起きたことだろう。
本作でも、現実社会と同様に、コロナ禍での意識の違いが明確に描かれている。特に真知子と怜人のカップルは対策意識の差によって、最初のすれ違いが生まれたと言っても過言ではない。
フリーランスである真知子は、感染したら生活が危うくなる。駆け出しのデザイナーである彼女にとって、仕事に穴をあけることは避けたいはずだ。しかし、ヒモ男の怜人はそんな真知子の事情を考えもせず、手も洗わずに弁当を食べはじめてしまう。真知子はウェットティッシュを差し出すが、当然彼女の言うことなど聞きもしない。そんなふたりを見て、多くの観客は共感やら怒りやらで感情を動かされたことだろう。
ほかの3組にも、コロナの影が少しずつ忍び寄っていく。泰造は意外にもウイルスリテラシーが高く、富はさらに神経質になり、慎太郎は緊急事態宣言を機に七瀬との関係を1歩進めようとした。女性たちはお米との向き合い方でキャラクターが表現されていたが、男たちはコロナとの向き合い方で性格が表現されている。皮肉にも、お米と同じくらいに、コロナが私たちの生活に侵食してきたことが証明されてしまった。
原作となった舞台は、コロナ禍とは無縁の2015年に上演された作品だ。当然、コロナに関する描写は、映画化に際して追加された、新しい要素である。コロナをとおして、男たちの性格が手に取るように理解できるのも、私たち観客が2年半のコロナ禍を乗り越えた証だろう。
隔てていた壁を超越する
映画のラスト、4人の女性を隔てていた壁が、唐突に崩壊した。いや、4人は壁を“超越した”と表現するほうが正しいかもしれない。
我慢できなくなった4人は、喧嘩の流れで男たちを部屋から追い出してしまう。普通の恋愛映画であれば、ここで終わっていい。引っかかるものはあるが、「この人とは縁がなかった」で終わらせることもできた。しかし、それではひとりでお米を食べていた、映画冒頭の彼女たちと何も変わらない。この先もひとりでお米を運び、お米を調理し、お米をほおばる。本当にそれでいいのか? もっとできることがあるんじゃあないのか、乙女たちよ!
観客の心の叫びが届いたのか、その瞬間、4人は壁を超越する。部屋を隔てていた壁を超越し、観客の意識の中にあった「4人は出会わない」という見えない壁をも超越した。遠く離れていると思われていた彼女たちの部屋は、実は隣同士にあるセットだったのだ。この演出は、本作の原作と脚本を担当した、舞台畑出身の根本宗子氏ならではの手法だろう。超越したとたん、4人の演技が“映画用”から、“舞台用”の少々オーバーな演技に変化していくのも、劇作家らしい演出といえる。
壁を超越した彼女たちに、もう怖いものはない。4人はダメ男たちを超越し、時間をも超越していく。さらに、さらに超越した所へと進んでいく彼女たちが得たものとは、どんなことだったのか? いよいよ、もっとも語りたかった本題に入っていこう。
妥協することの何が悪いんだ!
恋愛には妥協がつきものである。
これは筆者が冒頭で述べた自作格言だが、どうやら間違いではなかったらしい。
映画のラスト、時間を戻した真知子たちは、妥協した。気持ちのいいくらい、妥協した。
男たちは部屋を追い出されるに値する愚行を働いたが、彼女たちも男の気持ちを知りながら、自分の理想を押しつけていたのだ。真知子は容姿だけで怜人に声をかけ、鈴はゲイと知りながら富を好きになり、七瀬は子持ちであることを隠していた。美和にいたっては、元カレの生活費をいまだに払っている。男女関係なく、責められたくない場所があり、欠点があるのは至極当然だ。
男たちは完ぺきとは言えない。自分の弱さを隠すため、間違った男らしさで我が身を守ろうとした。かぎりなく抑えた表現をしても、“最低な人たち”である。しかし、男たちは皆、それぞれの相手を好きだった。もしかしたら、これ以上、真知子たちのことを想ってくれる男性はいないかもしれない。そんな場面で、理想を捨て、妥協した彼女たちを誰が責められるだろうか。彼女たちは最後の最後で、過去の自分をも超越したのだ。
ここでキーワードになるのが、またしても“お米”である。彼女たちとしては、ダメ男だと知りながらも一緒にいる“理由”がほしい。4人で決めた選択を全力で肯定できる理由がほしかった。そんな彼女たちが決めた、ある種の言い訳が「お米を持ってくれる人」である。重いお米をひとりで持つのは辛いから、持ってくれる都合のいい人が隣にいるだけ。そう妥協することに決めるのだった。
正直なところ、彼女たち全員が上手くいくとは考えにくい。妥協したからといって、すべての恋愛がうまくいくとは限らない。しかし、たとえこの恋愛が成就しなくとも、好きな人と一緒にいる時間を選んだ彼女たちが後悔することはないだろう。まさに本作は、恋愛映画のその先を行った「新時代の恋愛群青劇」だ。
『もっと超越した所へ。』作品情報
公開日:2022年10月14日(金)
監督:山岸聖太
脚本:根本宗子
原作:月間「根本宗子」第10号『もっと超越した所へ。』
公式サイト:https://happinet-phantom.com/mottochouetsu/
(C)2022『もっと超越した所へ。』製作委員会