【映画びと】スタジオ地図・映画プロデューサー齋藤優一郎 “次の作品ではものスゴいものが出てくる確信と、監督とのつばぜり合い”【ロングインタビュー】

齋藤優一郎

映画の仕事と人に迫るインタビュー企画「映画びと」。今回はスタジオ地図の映画プロデューサー・齋藤優一郎氏(42)。2006年の『時をかける少女』以降、3年に1本のペースで製作・公開されている細田守監督作品において、その全作品のプロデュースを手がける。

映画プロデューサーの仕事とは? 映画の可能性とは? そもそも「映画」とは何か――

あふれる質問を抱え、東京・杉並区にあるスタジオ地図の事務所を訪ねた。

齋藤優一郎

大きな波が来る、その時のために

――そもそもアニメーション映画のプロデューサーとは、どういう仕事をされているのでしょうか。

齋藤 そうですよね(笑)。この仕事は定義がないようなもので…、鈴木敏夫さんでも、川村元気くんでも、肩書きは同じプロデューサーですけど、役割として共通する部分もあれば、違う部分もある。それは、実写かアニメーションかという表現の違いではなくて。プロデューサーの仕事って、その人の主体性というか、誰と、何をどうつくっているかで決まってくるものではないかなと。

――齋藤さんにとっては、細田守監督の存在がありますね。

齋藤 かれこれもう15年、ですかね。『時をかける少女』から始まり、今回の『未来のミライ』で5本の映画を作りました。

――齋藤さんから見て、細田監督はどのような作り手ですか。

齋藤 映画監督にもいろんな方がいます。でもその中で、細田さんは自分の人生や日常の中に潜む喜びや驚きをモチーフに、アニメーションという表現で世界中の誰もが共感できる、共通する人生の奇跡を映画にできる人、そういう作家だと思うんです。

未来のミライ

齋藤 そして、誰よりも映画の可能性を信じていて、その可能性に対して挑戦をし続ける永遠のチャレンジャー。だから毎作気が抜けないんです。「次の作品ではもっとチャレンジングな企画が出てくる」みたいな予感……というより確信が常にあって、だからどんな球が飛んできても、柔軟に、そしてプロデューサーとしても同じチャレンジできるチーム体制やファイナンス的な仕組みも準備しておく必要がある。次もとてつもない新しいチャレンジをしてくる、誰も見たことのない、映画の地平線に向けた剛速球が飛んでくる、まずはその球を受け止めることから、一緒に考え、チャレンジをすることから始まるんです。

――そこから、まさに齋藤プロデューサーの仕事になっていくわけですね。

齋藤 今までの経験を踏まえると、僕の中のプロデューサーの仕事とは、まず作家に寄り添うこと。作家が表現したいものを一番いいカタチでつくってもらうために、作家とその作品に寄り添うようにしています。そして、できあがった作品を一番いいカタチで世の中に送り出して、願わくはずっと見続けてもらい、内容的な評価と経済的な評価もきちんと作り手に戻すことによって、また新しいチャレンジという次の作品につなげていく。そうしたもの作りの循環や環境をつくることがプロデューサーの仕事なのかなと思っています。

齋藤優一郎

――映画のプロデューサー業に必要な資質は何でしょうか?

齋藤 何でしょうね……、でも僕はやっぱり主体性だと思います。映画を作る動機は誰かに与えられるものではなく、それは常に自分たちの中にある。僕は、細田さんの映画を観たい、そして一緒に新しいチャレンジをしたいと思っています。それを実現するために「スタジオ地図」も作った。もちろん、監督とプロデューサーだけで映画をつくっているわけではない。でも、この主体性こそが、最も大事なものなんだと思っています。

スタジオ地図

スタジオ地図

自分に何ができるかわからないけれど

――そもそも齋藤さんがプロデューサーを目指したきっかけは何でしたか?

齋藤 子どもと大人が一緒に楽しめるアニメーション映画を作りたいという思いは、中高生の頃からありました。ただ、最初からプロデューサーという仕事に目が向いていたわけではないんですね。

――もともとは別の仕事に?

齋藤 学生の頃、実は小説を書いたり、絵の勉強をしてみたりと、自分も監督になるんだ、何かを表現したいんだという物作りへの願望はあったんです。ただその一方で、僕にはそういった能力がないということは、実はわかっていた。でも自分は何者なのかというアイデンティティを見つけ出していく中で、常にその中心にはアニメーションがあったんです。もしかしたらその世界の何処に、自分の役割や居場所があるかもしれない。そんなずっと暗中模索の学生時代に、光を示してくれたのが、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーだった。鈴木さんの作家や仕事に対する姿勢とバイタリティに大きな影響を受けたんです。

齋藤優一郎

――そこからプロデューサーの道に?

齋藤 自分の居場所があるかどうかも分からないけど、とにかく飛び込んでみようと。鈴木さんが居る、スタジオジブリの門を叩こうと。と同時に、その頃、米国のクリエイターたちに大きな影響を与えるアニメーション映画を多く作っていたマッドハウスにも実は書類を送っていたんです。ただ大学の卒業と就職時期が日本企業のそれとズレていたために、どちらもすでに採用が終わっていて、来年また応募してくださいと言われてしまったんです。

――それは残念でしたね。

齋藤 だけど一刻も早く現場で自分の居場所を探したかった僕としては、「じゃあ採用が無理でも一度会って欲しい」せめて「スタジオ見学だけでも」と両社に食いついて、たまたま一週間早く機会をもらえたのがマッドハウスだったんです。そこで僕を待っていてくれたのが、マッドハウスの創業者で、今でも東京の父だと思っているプロデューサーの丸山正雄だったんです。本当に偉大で尊敬するプロデューサーで、でもちょっと、いやかなり変わったおじさんなのですが(笑)、その変なおじさんに「君、変な奴だから採用するよ」と突然言われて……「エーッ!」と(笑)。内心、このせっかくの機会をどう活かせるかと、本当に若気の至りというか、馬鹿な思い上がりがあったのですが、この丸山さんの一言で、すごく素直になってしまった。と言うか、本当に感動してしまったんですね、こんないい人がこの世にいるんだと信じ込んでしまったんです(笑)。「ぜひお願いします!」と。それが運の尽きだったのかもしれないんですが(苦笑)。

齋藤優一郎

齋藤 でも、間違いなく今の自分があるのは丸山さんのおかげなんです。米国から一気にこの世界に飛び込んで、もう今年で丸20年。丸山さんも僕より少し遅れてマッドハウスを退社したのですが、70歳を過ぎて2つのスタジオを起業し、片渕監督『この世界の片隅に』を企画プロデュースするなど、変わらぬバイタリティで作品をいまも作り続けている。僕は11年間、丸山さんの傍らにいさせてもらって、アニメーションとは、ものづくりとは、プロデューサーとはといった哲学と楽しさを教えてもらったと思っています。そんな丸山さんは今もたまにスタジオに遊びに来てくれたりしますが、出会った時の印象と変わらない小さな巨人、今も尊敬するバイタリティ溢れた変なおじさんです。

――その後、『時をかける少女』が映画プロデューサーとしての初作品になったわけですが、その時何を思いましたか?

齋藤 それは今も変わっていないと思うんですが、監督が表現したいこと、実現したいこと、その作品へのチャレンジを一緒に邁進する、面白い映画を作るんだということに、ただただ、がむしゃらだったと思う。特に『時をかける少女』は作ることだけに集中。それ以外のことは宣伝も含めて、ほぼ頭になかった(笑)。

――製作と宣伝では、やはり違うものなのですね。

齋藤 6館から始まった『時をかける少女』が40週にわたりロングランしていく光景を見ている中で、映画を作ることの喜びを感じたことと同じくらい、作品を観てもらうこと、知ってもらうこと、そして発見してもらうことの大切さを、そのとき、とても感じたんです。作家と一緒に、一番良いカタチで作品を作って、一番良いカタチで作品を観客の皆さんに届ける。そのことを作品と沢山の方々から教えてもらったと思っています。

急にハッとする一言を言ったりする

齋藤優一郎

――「映画びと」では、日々に欠かせない仕事道具をご紹介いただいています。齋藤さんの“道具”はお手元にあるノートと伺いました。

齋藤 本当に普通のノートです(笑)。15年間ノートに取り続けていて、なんでも書きますね。作品打ち合わせのことも、ビジネスのことも、取材のことも、ちょっとした人の発言も気になったことはメモをするようにしています。その中でも、特に僕にとって重要なことは、細田さんの何気ない言葉なんです。細田さんって、本質を突くような、もしくはとても純粋な想いだったり、ハッとする一言を突然言ったりするんです(笑)。後でノートをひっくり返してみて、それをまとめたりしながら、自分の考えを整理することもあります。

齋藤優一郎

齋藤 細田さんは企画を決めた瞬間から、作品に対し、決してぶれることはない人で、逆に言うとそれくらい作品の強度も純度も高いんです。でも監督だからといって、最初から自分で作る作品のこと全てをわかっているわけではない。必ずある映画の正解にたどり着くためのプロセスの中で、様々な回り道だってすることもある。そんなときに、僕が指針として大切にしているのは、一番最初に思った気持ちであったり、それを表した言葉だったりするんです。何か迷ったときには、そこに一度立ち返る。それは作家と作品に向き合う、プロデューサーとしての道標でもあるんです。

齋藤優一郎

映画は白地図、描けることは無限

――齋藤さんの人生を変えた映画があれば、ぜひ教えてください。

齋藤 細田さんはいつもヴィクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』って言うんですが、そういう作品ですよね。そうだなぁ、1本、なんだろう……なかなか難しいですね(苦笑)。

――たとえば、子どもの頃に観た印象深い映画は?

齋藤 小さい頃からアニメーションが好きだった僕は、ドキドキしながら、ちょっと大人の扉を開けるつもりで、10歳の時に初めて「アニメージュ」(徳間書店発行の月刊アニメ専門雑誌)を買ったんです、1991年か、1992年だったか。そこで凄いものに出会った。それはちょうど「風の谷のナウシカ」の連載が再開された号だったんですね。で、それから何度目の見返しだったかは分からないんですが、映画『風の谷のナウシカ』を本当に繰り返し何度も何度も見返しましたね。

未来のミライ

齋藤 他の出会いで言うと、アメリカ留学中はかなり映画をよく観ていて、向こうはチケットも安いので週に2~3回ほど劇場に足を運んだり、当時はVHSで名作を友人たちと一緒に観たりね。そんな中で、もしかしたらあまり知っている人がいないかもしれないけれど、『グローリー』という南北戦争時代を描いた作品はとてもよく覚えていますね。海外で暮らしていて、アイデンティティの問題や差別だったり、日本では見えにくいものを肌で感じ、対峙していたときに、ものすごく響くものがあって。いま見返したらどう思うかは分からないけど、あの時代、あのときに出会えて良かったなと、それは心から思うんです。

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――齋藤プロデューサーにとって映画とは何でしょうか?

齋藤 そうですね、このスタジオの名前にもなっているように白地図なんじゃないでしょうか。アニメーションという表現で描かれる映画の可能性は、まだまだ無限に、白地図のように広がっているんだと思います。例えば、カリカチュアライズされた子どもではない、リアルな4歳の男の子を主人公にした『未来のミライ』は世界の映画史を見ても、誰もやったことがない、大きなチャレンジだったと思う。

未来のミライ

齋藤 その小さな子どもの視点とそれを取り巻く家族の日常を通して、そこに潜む喜びや驚き、奇跡を世界中の皆さんが発見してくれた。日本の片隅にある小さな家族の物語が、過去から未来、延々と繋がっていく巨大な時間の流れや、その中で連なる命といったことなどを、世界中の人たちと共有し、様々な思いを重ねることもできてしまうのも、映画の力であり魅力なんだと思います。

―― 一般公募した齋藤さんへの質問の中に、こんなものがありました。「スタジオ地図作品のポスターデザインには、全て背景に夏の青空がありますが、それはなぜでしょうか(20代・女性)」。

齋藤 夏は、子どもや若者たちが最も成長、変化する時期なのではないかと思っています。細田さんの映画は夏の映画。その変化の瞬間を、時代を、未来の象徴として、常に入道雲を描き続けているんだと思います。

齋藤優一郎

(インタビュー・文=鴇田崇/FILMAGA編集部、撮影=林孝典)

映画『未来のミライ』information

未来のミライ

2019年1月23日(火)DVD/Blu-rayリリース

公式サイト:http://mirai-no-mirai.jp/

(C)2018 スタジオ地図

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※2022年4月30日時点のVOD配信情報です。

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